第五章『生を願え、死を想え』(5)
《鬼》の周囲を飛び回る蝙蝠達の羽ばたき音しか響かない、静寂。同胞達の中で、《鬼》はただ俯いて。
「遼……」
未だに凄まじい気配を発しているのに、純也は《鬼》へ近寄っていく。何故か……純也は、恐怖を感じていなかった。
少年が《鬼》の前に立つと、何かを察してそこだけ蝙蝠達が場所を空ける。また一歩、純也は近づいて「遼」と短く呼ぶ。
「純也さんっ、危険です!」
後ろから時雨の叫びが聞こえたのと、震える《鬼》の右手が持ち上がるのは同時で。その大きな手が、細い少年の首をゆっくりと、掴む。
力を込めれば一瞬で砕けてしまう、純也の白くか細い首。僅かに顔を上げた《鬼》の瞳は、闇の虚無。それを見上げる少年の瞳は、光の慈愛。
そっと、純也は左手で優しく、自分の首を掴む《鬼》の手を握る。
「遼……聞こえるよね、遼? 大丈夫、もう大丈夫だよ。《人間》の遼も僕も、ココにいるよ」
にっこりと穏やかに微笑んだ少年の顔に、《鬼》の……いや、遼平の瞳が開く。首から手を離し、その小さな手を握り返した。
「翼……!?」
その光景を見ていた時雨が、思わずその名を口にする。今、確かに、遼平の前に翼が居た気がして。あの声色、空気は、本当にあの男に似ていて……。
張りつめていた空気は一瞬で消え去り、遼平が膝から崩れ落ちる。その大きな身体を、純也はしっかり受け止めた。
「お帰り……遼」
意識の無い男を心配するように、蝙蝠がその身に寄り添う。全身にわたる傷口をいたわるように、優しく『同胞』の怪我を覆って。
もう微かな脈と、小さな呼吸、冷たくなっていく身体。失ってしまうのが恐ろしくて、純也は肩に担ぎ上げて急ごうとする。
「……! 時雨さん……」
少女の遺体を抱き上げてこちらを向いて立つ女性に、純也は息を呑む。今、時雨に復讐されたら……。
「変な人……ですよね。《鬼》と呼ばれて仲間を殺したくせに、知らない少女の死に憤って……それでも、敵を殺さない。本当に、あなただけはわからない……」
「時雨さん……まだ、遼のことを……」
涙の乾いた弱々しい笑顔で、時雨は純也を……瀕死の遼平を見やる。
「わからなくなってしまいました。『命を大切に出来る者には《人間の》強さが宿る』と……翼の口癖、遼平は覚えていたんですね。遼平が翼を殺したのは《事実》、けれどそれが《真実》とは限らない……。今日のところは、失礼させていただきます」
一礼した時雨が、少女を抱いたまま去っていく。寂れた路地には、純也と遼平だけ。
「あれ……? フェッキーは??」
いつの間にか消えていた情報屋。確か、キラーのリーダーが倒された時までは隣りに居たような……。
「……つばさ……」
今にも止まってしまいそうな呼吸の間に聞こえた、小さな言葉。純也はその声に我に返って、急いで獅子彦の病院へ向かう。
「遼、悪いけど、まだ翼さんには会わせられないよ。僕、まだ遼といたいんだ」
「自分勝手でごめんね」と謝罪の呟きを漏らして、少年は一回り以上大きな身体を引きずっていった。
……先ほどまで騒がしかった路地に、静かに風が吹く。それをただ一人、傍観する者がいた。ビルの屋上で脚をぶら下げ、荒らされた地上を見下ろす。
「《鬼》の遼平クンに、風使いの純也クン、か。なかなかいいデータがとれたヨ、《ロスキーパー》……マだマだ観察の必要が有りソウだネ」
そして、全ての人間がこの路地から去った。