第五章『生を願え、死を想え』(3)
なんとか立とうとした遼平の背は、何者かに蹴られて、再び男はアスファルトへ前倒れに。
そして、矢が肉体へ突き刺さる音が、聞き取れた。
純也の見開かれた青い瞳に、スローモーションのように映る、血しぶき。その紅を放つ、宙に浮かんだ小さな身体――――矢に刺された、名も無き少女が。
「お、ねいちゃ……」
「なんで……!」
瞬時に飛び出してきて遼平の背を踏み台に跳び上がった少女は、ゆっくりと女の腕の中に落ちる。心臓を射抜かれた、幼き少女の身体。
「どうして来たのですか!? なんで、こんな!」
両手を震わせながら、それでもぎゅっとしっかり少女の身体を掴んで、時雨は問う。どんなに力を込めても引き抜けないボーガンの矢。少女が上げた手を、時雨は握り締める。
「お姉ちゃんをね……信じてたから……大切だから……あたしもう、独りじゃない、ね……だから、」
歪んだ弱々しい笑顔で。
『しあわせだね』、と、音にならない言葉を最期に。
「い……っ、いやああぁぁぁ――――!!!」
女の甲高い悲鳴は、廃ビルの壁に響く。
「僕のせいだ……僕が、この子を……」
絶対に来てはならないと、忠告しておけば。そうしたら、こんな悲しい幸せにはならなかったのに。強い呵責が、どこまでも純也の心を締め付ける。
「なんだぁ、スカイはガキの預かり所かぁ? ちっ、だが今度は外さないぜぇ?」
心底おかしそうに、笑いを堪えながらボーガンを再び構える男を、フェイズと純也が睨む。時雨は少女の亡骸に泣きついて、膝をついたまま。
しかし、この場の誰もを黙らせたのはフェイズでも、純也でも、ましてや時雨でもない…………突如周囲を支配した闇だった。
◆ ◆ ◆
『真、澪斗、今一人の生体反応消滅をレーダーが確認! 後から乱闘に入っていった人よ。遼平もどんどん衰弱して……。えっ!?』
暗かった声が、いきなり驚いた高い音を出す。スカイの者達をほとんど昏倒させた頃だった。
「なんだ、蒼波が死んだか?」
『違うわ、逆! 遼平の生体反応が回復、体温が上昇中……って、きゃあああっ!?』
「希紗!?」
悲鳴に屋上を見上げた澪斗と真は、瞬間唖然とする。晩夏でも高い太陽が消え、青空が黒一色!?
「なっ、何やアレ!?」
「希紗、どうした!」
『こ、これ全部……蝙蝠よ!? ビルの上を、蝙蝠の大群が飛んでる!』
無線から、希紗の周りを通過しているらしい羽ばたきと鳴き声の音がうるさい。生物としての本能でわかる……蝙蝠達は、何かの危機を訴えている。
無意識の内に、二人の武器を握る手が震えていた。
「何なんだ、この悪寒は……!」
「ワイは知っとるで……かつての『スカイ』ナンバー二の男、《邪鬼》が目覚めたんや」
「このような殺気……これが蒼波だと!?」
守護業を始めて以来、男が放たなかった気配。平和を愛するグループの中で、唯一《自ら》破壊をしていたと言われる男の殺気。
「まだ……エエ方や、これはまだ、『目覚めた』だけやから……」
これで、完全なる気配ではないと? 去っていった蝙蝠によって戻ってきた日光のせいではない、冷や汗が澪斗に流れる。
『真っ、蝙蝠が向かったのは、遼平達の方よ! やっぱり私達も行ったほうが……』
「あかんっ! 今の遼平には近づいたらあかん……むやみに近づいて、ワイがあんたらを護れる自信が無いっ」
二人の部下に怪我をさせない自信が、真には無かった。《鬼》の怒りの鎮め方を知らない……いや、それは本人さえも……。
◆ ◆ ◆
「リーダー!」
「狼狽えんな! よく見ろ、ただの蝙蝠じゃねぇか!!」
そう強気に言い放つ言葉とは裏腹に、キラーのリーダーから嫌な汗が止まらない。ビル壁の狭間を飛び交い、青空を隠す漆黒の翼。
「いつもの宋兵衛の群れじゃない……この子達、怒ってるよ……!」
純也の緊迫した声色。ずっと空を見上げていたせいで気づかなかったが、いつの間にか遼平が立ち上がっている。
『リョウヘイ、憎悪の音、確かに聞こえたよ。僕達も憎いよ』
『人間にして我らが同胞よ、汝の怒り、我らもしかと聞き取った。闇を操るがいい』
その言葉を理解出来るのは、蒼波の人間のみ。闇を司る者のみ。
『……我が名は蒼波、音を統べし者。陽よ、汝が力を我に貸し与えよ。闇よ、汝が力を我が身に宿せ――』
その歌は人間には聞こえないはずなのに、その場の全員が凍り付く。遼平が左腕を掲げた途端に、蝙蝠達が一斉に静かになる。
「ダメだよ遼っ! そんな身体で『覚醒の調べ』を使ったら!!」
自殺行為だ。覚醒状態が切れた時、身体が滅ぶ……。
「やめて」と叫ぶ少年の声だけが、周囲の者に聞こえる音。
『眠りし力、今解放を望む。――――我、覚醒を望む者なり!』
男の傷口から流れ出していた血液が、瞬時に固まる。ゆっくりと俯いていた顔を上げて。
その瞳を見ただけで、放たれる気で、失神する者達。それは……。
「……今までの生を思い、これからの死を想え。この俺を前に、それでも立つのなら」
《邪鬼の権化》などと生温い名で呼ぶのは相応しくない、本当の《鬼》だった。