第三章『事実と追憶』(2)
「くっ、う……」
闇から意識が引き戻される軽い浮遊感と、それに伴う頭痛。ゆっくりと瞼を開けるが、何故かチラチラとする。
「遼! よかった……気がついたんだね」
「……純、也……?」
安堵の表情の純也が遼平の視界に入ってくる。その目元には薄らと涙さえ浮かんでいるように見えた。
「よかった……ほんとによかったよ。遼ってば目を覚まさないんだもん、心配したんだよ?」
「俺は……どうなったんだ? そうだ、時雨は!?」
がばっと身を起こした途端、激しい頭痛が遼平を襲う。その痛みに身悶えた身体を純也が支えた。
「ぐう……っ」
「ダメだよ遼、まだ寝てないと。応急処置はしたけどまだ毒が身体に残ってるんだから……」
また寝かされ、遼平は顔だけ動かして周囲を窺う。さっき休んだ仮眠室だ、自分が寝かされているのはソファらしい。まだハッキリとしない視界で、遼平はぼんやりと純也を見る。純也は身体の所々に絆創膏や包帯を巻いていた。
「純也無事か? 一体何があったんだ?」
「僕の方はなんとか……。びっくりしたよ〜、いきなり蹴り飛ばすんだもん」
「お前、毒は?」
「うん、僕はあんまり吸わなかったから平気。ありがとね」
「……俺のせいだ、礼を言われる筋合いはねぇよ。それで、時雨は?」
「あの後なんとか着地して、急いで二階まで駆け上がってさ。それで部屋に到着した時にはもう遼の意識は無かったんだけど……とりあえず逃げてもらったよ。僕、時雨さんとは戦いたくなかったし……」
「……」
「あのさ、遼、遼は……」
一瞬気まずくなったその時、ドアノブが回る声、誰かが入ってくる足音。遼平には視界が完全に治らなくて誰だかわからなかった。
「なんだ、蒼波は目が覚めたのか」
「紫牙か? お前、どうしてココに……」
「純也に呼ばれた。貴様が倒れて警備ができない、とな」
「純也?」
「ご、ごめん……。でも、僕は遼の手当てがあったから……ごめん」
純也が申し訳無さそうに俯く。遼平が澪斗とは仲が悪いのは知っていたから、澪斗に頼むのはなるべくなら避けるべきだったのだ。だが、それよりただ遼平が心配で……彼は警備に当たれるような状況ではなかった。
「謝るな、俺が悪かった。だが……なんでよりにもよって紫牙なんだ?」
「よりにもよって、とは何だ。希紗は機械部品の裏オークションに行っていて不在。真は『新婚旅行』で当分帰ってこん」
「まぁ……そういうコトなんだよ遼」
「希紗はともかく真のヤロー、もう何回『新婚旅行』やってんだよ!?」
「今回で十七回目、だな」
「もう『新婚』じゃねーだろ……」
なんだか強くなってきたように思える頭痛に、遼平は瞼を閉じた。駄目だ、まだ当分動けそうにない……。
「とにかく今のところは異常無しだ。もう警備は必要無いと思うが、俺はもう一度見回ってくる」
「ありがと澪君」
「紫牙」
「何だ」
「……悪ィ」
「気色悪いぞ、毒を吸って頭がおかしくなったんじゃないのか?」
「…………そうかもな……」
一度自嘲気味にニヤついて、遼平はまた意識が闇に引き込まれるのを感じた。
遼平がまた眠りについたのを確認して、純也の顔に再び不安そうな色が宿る。もう二度とその目を開いてくれないのではないかと……そんなことは有り得ないはずなのに、心が不安定に揺れる。
「案ずるな純也、蒼波はそう易々と死ねるような人間ではない」
まるで純也の考えを全て見通しているような澪斗の言葉。おそらく、誰が見てもわかるほどに今、少年は怯えた表情をしているのだろう。
「ねぇ澪君……遼は仲間を裏切って殺すような人じゃ……ない、よね……?」
澪斗に背を向けて、純也は遼平の脈をとる。その言葉は勝手に震えていた。澪斗は窓から冷たい蒼い月を眺めて、語り出す。
「……数年前、ケルベロス……《冥府の門番》と呼ばれた男がいた。東京裏社会で最強にして最高と謳われた男がな。しかし覇者とていつかは倒される、『最強』の称号を求める者に。だがケルベロスを倒した者に与えられた称号は、『最低最悪の裏切り者』だった。……ケルベロスが最も信頼を寄せていた仲間だったからな」
「それって、遼の……っ?」
「裏切りなど、裏社会では珍しい事ではない。……ただ、ケルベロスのいたグループは東京裏社会の浮浪者達を救い、完全な平安を与える一歩手前までで……突如として中枢の重要な人間を失った。そして裏社会はまた暴力と混沌に満ちた世界に堕ちる……ケルベロスを希望としていた者は絶望した。俺が知っている情報は、そんなトコロだ」
普段無口な澪斗にしては珍しく長く語った後、彼は一息吐く。そして混乱の顔をしているであろう純也へ。
「所詮、裏社会に平和など有り得ない。他人を蹴落とし合うのが、この社会の《定め》だ。蒼波がどれだけ人間を殺めたか知らんが、殺し屋をしていた俺には言及する権利は無いからな」
それは澪斗なりの考えで、遼平への姿勢なのか。フォローするようでいて、冷たく遼平の裏切りを肯定して。
……そうして沈黙する純也を残し、澪斗は再び警備に去っていった。
「僕は……僕は遼を信じるよ……? ねぇ遼…………遼は、人に絶望を与えるようなコトしないよね?」
肩を震わせて男の手を握る少年は、ただひたすらに望み、祈り、信じていた。