青い看板の店
看板が小さくなった翌日、マコは店先の水筒を三度並べ直した。
背の高いものを奥へ。
口の広いものを手前へ。
青い看板に描いた絵と、なるべく似ているものを真ん中へ。
そこまでやって、昨日と同じ並びだと気づいた。
顔を上げる。
看板には、布と水筒と、ぐるぐる巻きの針金が描いてある。
元の文字は、もう読めない。端を切り取ったときに途切れ、残った文字も自分で消した。
マコは店から少し離れ、通りかかる客の目で眺めてみた。
布は、畳んだ布に見える。
水筒も、たぶん分かる。
針金は、何かの巣に見えなくもなかった。
「何してるんだい」
隣の店の女が、干した葉を束ねながら訊いた。
「読めるかと思って」
「自分で書いたんだろ」
「自分で書いたから、分からないの」
女は青い看板を見た。
「布と、水筒と……紐?」
「針金」
「ああ」
マコは店へ戻り、ぐるぐるの端を、少し角ばらせた。
*
重力が反転して五年。
地下鉄や地下施設をつないだ街、メトロジェイルでは、物の値打ちは、持ってきた人と欲しがる人の間で決まる。
市場ヤエチカの一角で、マコは交換屋をしていた。
店の奥には棚が三つある。
一つは、使えるもの。
一つは、直せば使えそうなもの。
最後の一つは、マコには何だか分からないもの。
三つ目の棚から先に売れる日もあった。
地上へ出て物を持ち帰るハンターが、ときどき古い部品をまとめて置いていく。マコは泥や埃を落とし、尖ったところを布で包み、誰かが見つけてくれる場所へ並べる。
何に使うのか分からなくても、見えなくしてしまっては交換にならない。
それなのに、店の看板は小さくなってしまった。
昨日、通路の灯りを直す金具が足りず、修理屋に一部を切って渡したのだ。
その灯りはいま、配管を越える客の足と、青い看板を下から照らしている。
悪い交換ではなかった。
ただ、狭くなった看板に、文字の代わりに何を描くかまでは考えていなかった。
「今日は何があるんだい」
声に振り返ると、背の曲がった老人が立っていた。
ヤエチカの奥で、古いピアノを直している人だった。肩から提げた布袋が、歩くたびに身体より少し遅れて揺れる。
「布と水筒と、針金」
マコが看板を指すと、老人は目を細めた。
「針金か。ちょうどいい。細いやつはあるかい」
「どのくらい?」
老人は親指と人差し指を寄せ、眉間にも皺を寄せた。
「見たほうが早いわね」
マコは三つ目の棚から、浅い箱を引き出した。
*
箱の中には、長さも太さも違う金属線が入っていた。
老人は布袋を足元へ置き、一本ずつ取り出していく。
眼鏡を上げ、顔へ近づけ、また戻す。
「こいつは柔らかすぎるな」
「何を留めるの?」
「ハンマーだよ。ピアノの中で弦を叩くやつさ……」
老人の指が止まった。
「待て」
箱の隅に、小さく巻かれた金属線があった。
ほかの針金とは分けて束ねられ、汚れた紙が結びつけてある。
「これ、どこから来た」
「ハンターが持ってきた箱に入ってた。楽器の部品らしいって。それ以上は聞いてない」
老人は紙を裏返した。
消えかけた数字を読み、線の端を灯りへかざす。
「こいつは、ピアノの弦だ」
マコも顔を寄せた。
針金にしか見えなかった。
「使えるの?」
「太さと長さを見んことには」
老人は布袋から、小さな道具と、折り畳んだ紙を出した。
紙には数字がびっしり並び、そのいくつかに丸が付いていた。
マコは箱を横へずらし、卓を空けた。
老人は弦を調べ、紙を見て、また弦へ戻った。
さっきまで続いていた独り言が、急になくなった。
店の前を荷車が通る。
隣の店で、束ねた葉を数える声がする。
やがて老人が、紙の丸を指で押さえた。
「ここだ」
「合いそう?」
「ああ、なんてツいてるんだ。これだけあれば足りるぞ。音が揃う……直せるぞ」
老人は顔を上げた。
口の端が上がっていた。
笑っているのだと分かるまで、マコは少しかかった。いつもは、使えない部品を見つめて眉を寄せていることのほうが多かったからだ。
「これで直るの?」
「ハッハハ。まだ仕事はあるよ。張って、合わせて、ほかも確かめんと」
老人は弦の束へ目を落とした。
「だが、これがなきゃ先へ進めんかった」
マコは看板を振り返った。
ぐるぐる巻きの、下手な針金の絵があった。
*
老人は布袋を探り、小さな紙袋を取り出した。
「交換は、こいつでどうだ」
マコは受け取り、口を開いた。
中には、小さな粒が入っている。
「種?」
「イチゴだそうだ。地上から戻ったハンターにもらった。袋にそう書いてあったと言ってたが、アッシには見分けられん」
「古いの? いつのもの?」
「そこまでは聞いてない」
マコは粒を見た。
野菜の種を持ち込まれることはある。けれど、イチゴの種を見せられたのは初めてだった。
芽が出るかどうかも分からない。
目の前の老人が欲しがっている弦と、同じ値打ちになるのか。
「ほかには?」
老人は布袋を広げた。
小さなねじ、欠けたつまみ、使い込んだ工具。
マコは一つずつ見て、紙袋を閉じた。
「これでいい」
「いいのかい」
「聞いてみたい人がいるの。育てる仕事をしてる人」
老人は弦を両手でまとめ、引っかからないように布でくるんだ。
袋へしまってから、もう一度取り出し、巻き方を直した。
「切れない?」
「そんな簡単には切れんよ」
「ずいぶん大事にするから」
老人は手を止めた。
「長いこと、待ったもんでね」
マコは紙袋を棚の奥へ置いた。
老人が去ったあと、針金の箱には丸い隙間が残っていた。
ほかの品を寄せて埋めようとして、マコはやめた。
次に何か届いたら、そこへ置けばいい。
*
「これ、布」
店先で、小さな声がした。
女の子が、青い看板を指していた。母親らしい女性と手をつないでいる。
空いた腕には、黄色いクリップで留めた紙の束を抱えていた。
「こっちは、お水」
「水筒もあるよ」
マコが声をかけると、女の子は顔を上げた。
「ぐるぐるは、針金?」
「よく分かったね」
「先っぽが、ぴんってしてるから」
マコはさっき描き直したところを見た。
「そこ、大事なの」
女の子は少し得意そうに頷いた。
「サヨ。お店の前を塞がないようにね」
母親に言われ、女の子は一歩横へ寄った。
それから紙の束を持ち上げた。
「待ってるもの、ある?」
「私が?」
「うん。わたし、まちものちょうを作ってるの。だれが、何を待ってるか、書くの」
サヨはクリップを外した。
名前や絵のある紙が、少しずつずれて広がる。
マコは布を触ったあとの手を拭き、見せてもらった。
水を待っているところがある。
物が届いて、『きた』と書き足された行もある。
名前の隣が、空いたままのところもあった。
「何でも書いていいの?」
「書きたかったら」
マコは顔を上げた。
サヨは白紙を一枚、抜き出していた。
「いま決めなくてもいいよ」
その紙を受け取り、マコは店の中を見回した。
布。水筒。針金。
もう少しあれば助かるものなら、いくらでもある。
「考えておくね」
サヨは頷き、残った紙をクリップで留め直した。
*
しばらくして、野菜を育てるヤオヤの七海が来た。
腕に抱えた袋から、土の匂いがした。
「肥料になるもの、入ってない?」
「今日はない。でも、見てもらいたいものがあるの」
マコは棚の奥から紙袋を出した。
七海は中を覗き、灯りへ近づいた。
「イチゴの種だって」
「どこにあったの?」
マコは、老人から聞いたとおりに話した。
七海は掌へ少し出して眺め、丁寧に袋へ戻した。
「よく似てる。確かとは言えないけど」
「育つ?」
「種が生きていればね。やってみないと分からない」
そう言いながら、七海は袋を手放さなかった。
「欲しい?」
七海は頷いた。
交換に出されたのは、形のいびつなジャガイモだった。
二人で大きさを見て数を決める。マコは受け取った芋をバッグにしまい、七海は紙袋を上着の内側へしまった。
「イチゴって、どんな味だったっけ」
マコが訊くと、七海は手を止めた。
「甘くて、酸っぱい」
「それは覚えてる」
「じゃあ、覚えてるよ」
二人で少し笑った。
七海は青い看板を見上げた。
「小さくなった?」
「その分、明るくなった」
マコが足元の灯りを指すと、七海は照明の端に巻き付いた青い金属を見つけた。
「そこに行ったんだ」
「今度から、店を探すときは絵を見て」
七海は親指を立て、口角を上げた。
*
店を閉める前も、マコは看板を眺めていた。
少し離れて確かめていると、市場の奥で、ぽん、と音がした。
マコは振り返った。
もう一度。
今度は、さっきより少し高い。
ピアノだった。
音はそこで途切れ、何かを動かす物音に変わった。
しばらく待っても、曲にはならなかった。
マコは店へ戻った。
棚の脇には、サヨにもらった白紙が置いてある。
鉛筆を取り、最初に自分の名前を書いた。
その隣で少し迷い、続きを書く。
ヤエチカ マコ ピアノの曲
書いてから、首を傾げた。
老人に何を弾いてほしいか、曲の名前は一つも浮かばなかった。
紙を二つに折り、次にサヨが来たとき渡せるよう、引き出しへしまう。
市場の奥で、また一音鳴った。
マコは店先の布を下ろしかけた手を止めた。
その続きが聞こえるまで、もう少しだけ開けておくことにした。




