「盗人め」と告げた上役が、私の置いた帳簿一枚を見て、二度と私の名を口にしなくなった件
「おまえは第五の月十八日、保管庫から金貨四百十二枚と銀貨七枚を持ち出した」
上役の声が長机の端まで届いた。
商会の会計係として勤めて三年、彼が人前で私の名を使うのは、叱責するときだけだった。
私は並べられた帳票ではなく、告げられた金額を頭の中でもう一度揃えた。
銀貨が一枚多い。
その日の支払いは金貨四百十二枚と銀貨六枚だった。そして彼が口にした十八日には、上役自身の署名が残っている。衛兵へ渡される前に、それを雇い主の目へ届かせる必要があった。
「残高と支出記録を照合いたしました。間違いはございません」
私が答えると、上役は雇い主のほうへ身体を向けた。背筋を伸ばし、机上の報告書へ指を添える。
「帳簿には、本人が保管庫から持ち出した記録がございます。ところが、支払先には届いておりません。鍵を扱えた者も限られておりますので、これ以上の調査は不要かと」
雇い主は報告書を見下ろした。
三年前、平民の私が求人の列へ差し出した計算書を見て、身分ではなく数字で採用を決めた人だった。今、その目は私ではなく、上役が昨夕まで書き直していた報告書だけに向いている。
「横領が事実なら、解雇だけでは済まない。衛兵へ引き渡す」
指が報告書の端を一度叩いた。
衛兵へ渡されれば帳簿には触れられない。私の筆跡がある帳票は証拠となり、三年間揃えてきた数字が、そのまま私を盗人に仕立てる。
「元帳を確認させてください」
上役の指が元帳の表紙を押さえた。
「確認は私が済ませた。おまえが触れれば、また都合よく書き換えるだけだろう」
長机の右側で椅子の脚が床を擦った。同僚の一人が帳票を抱え、上役の側へ席を移す。
「鍵を預かっていたのは、確かにこの人です」
「あなたがなくした鍵を、私が見つけた夜もですか」
同僚は一度だけ唇を閉じた。抱えた帳票の角が、指の下で曲がる。
「……それと今回の件は別です」
先々月、書類棚の鍵をなくしたその者と、私は閉店後まで棚や床を探した。帳票の裏に貼りついていた鍵を見つけても、上役には報告しなかった。
二脚目が離れた。
「いつも最後まで残っていましたし」
三脚目は持ち上げられず、石床を長く引きずった。その同僚が桁を一つ間違えた支払書も、締め日前に私が直していた。
上役が同僚たちへ目をやると、口元を隠す手が二つ重なった。漏れた息が、笑いの形になる前に袖へ消える。
「金を数えるふりをして、抜く分まで数えていたのではありませんか」
それを言った同僚は上役と目を合わせた。上役の顎がわずかに上がる。
「平民を会計係に取り立てていただきながら、恩を仇で返すとはな。盗人め」
その語尾だけが強かった。
私は元帳へ伸ばしかけた手を膝へ戻した。爪の先に、朝つけた紺青のインクが残っていた。
「帳票類はすべて返却しろ。下書きも控えも、私物へ紛れ込ませた紙もだ」
上役は雇い主へ向き直ると、声を元の高さに戻した。
「証拠の保全が必要です。本人には何一つ持ち出させぬようお願いいたします」
「そうしよう」
雇い主の一言で残った椅子も動いた。六脚が私から離れ、長机の反対側に並ぶ。
こちら側には私と、机の隅のインク壺だけが残った。
半分ほど入った紺青のインクは、光を受けても底を見せない。蓋の内側に乾いた輪があり、縁だけが少し欠けている。
書き味はよかった。安い羽根ペンでも線が途切れず、帳簿の細い欄へ数字を収められる。備品係が別の品へ替えようとしたとき、私は欠けた縁なら使用に差し支えないと三度書類を返した。
「どうした。まだ何か隠しているのか」
上役の声で、私は視線を元帳へ戻した。
彼の手の下から頁の一部が覗いている。第五の月十六日の支出。その下に十七日の入金、さらに十九日の仕入れ。十八日の臨時払いは、帳簿を成立させる原票である受領票へ記す決まりだった。
ところが十七日と十九日の狭い行間へ、一本だけ濃い文字が押し込まれている。
第五の月十七日。保管庫より金貨四百十二枚、銀貨七枚。会計係持出。
ほかの記録は私の紺青で書かれている。その一行だけが黒い。
数字の七は深く紙へ食い込み、横線が長かった。上役は七を書くとき、最後に筆先を右へ払う。報告書の金額にも同じ形の七がある。
書類の端を揃える上役の指には黒い染みが残っていた。あれだけで誰の仕業かは決まらない。ただ、どの文字を見るべきかは決まった。
告発で彼が口にしたのは十八日だった。
日付が合わない。
十八日の午前、私は保管庫を開けた。金貨四百十二枚と銀貨五枚を袋へ移し、臨時払いとして上役へ渡した。銀貨一枚は運搬人へ直接支払い、受領欄には上役自身が署名した。
受領票は元帳に綴じていない。支払いの確認が終わるまで、担当者が原本を預かる。
本来なら昨日のうちに上役へ渡すはずだった。だが彼は報告書を書き直しながら、確認は明朝でよいと言った。今朝、確認印をもらうために持ってきた原本は、まだ私の内ポケットにある。
写しはない。
紙が呼吸のたびに衣服の裏を擦った。
「持ち出した日は、十八日で間違いありませんか」
上役の眉が上がった。私が弁明を始めると思ったのだろう。椅子を寄せた同僚たちへ視線を配り、元帳を叩く。
「何度言わせる。十八日だ」
「金額は、金貨四百十二枚と銀貨七枚ですね」
「そうだ。おまえが持ち出し、支払先へ届けなかった金額だ」
上役は報告書を私のほうへ回した。黒い七が、元帳の七と同じ角度で傾いている。
「元帳の十七日の記入も、正式な記録だとお認めになりますか」
一拍だけ、上役の指が止まった。
それから元帳を閉じ、表紙へ手のひらを広げた。
「無論だ。私が管理責任者として確認した。記録に不備などない」
「承知いたしました」
私が答えたのは、それが最後になった。
上役は鼻から息を抜いた。
「聞いたか。本人も認めたぞ。十八日の朝、保管庫へ入り、記録どおりの金を持ち出した」
同僚の一人が、上役の肘掛けへ触れそうなところまで椅子を寄せる。
「信じていたのに」
先月、その者が三日休んだ間の帳簿を締めたのは私だった。復帰した朝には遅れがないことだけを告げた。そのとき渡された焼き菓子の包み紙は、今日まで引き出しの底に残していた。
「これほど明らかな横領を見逃せば、会計部門全体の信用に関わります。即時の解雇が妥当でしょう」
雇い主はしばらく報告書を見ていた。やがて、それを長机へ置く。
「本日付で職を解く。鍵と帳票を返し、私物をまとめて退室しなさい」
返事をすれば、舌が歯の裏へ貼りつきそうだった。
私は腰の鍵束を外した。
保管庫の鍵。書類棚の鍵。小口金庫の鍵。三本が机上で重なり、短い音を立てる。
「聞こえなかったのか」
上役が言った。
私は空になった腰へ手を戻した。
「帳票もだ。おまえの筆跡があるものは一枚残らず置いていけ。調査が済むまで、勝手に町を出ることも許さん」
雇い主の前では願い出る口調だった男が、私に向けては命令を重ねる。同僚たちの椅子が自分の側へ集まるたび、言葉の間隔は短くなった。
私は机の引き出しを開けた。
予備のペン先、糸、封蝋の欠片。昼食代を包んだ布袋と、二本の羽根ペンだけを取り出す。
奥には計算の下書きがあった。私の紺青の数字の脇へ、昨夕、上役が黒いインクで金額を書き直している。銀貨六枚を消す線。その上へ置かれた七。横線は隣の欄まで届いていた。
下書きは命じられたとおり机へ残した。
紺青のインク壺を持ち上げかけ、手を止める。底には商会の備品であることを示す刻印があった。私は蓋の欠けた部分を指で一度なぞり、元の位置へ戻した。
「長居をするな」
上役の手が椅子の肘掛けを叩いた。
内ポケットには受領票がある。これも帳票なら、置いていかなければならない。
ここで見せれば、上役は私の手から奪うだろう。持ち出せば、署名を隠したと呼ばれる。置けば、破られるかもしれない。
紙の角が布越しに肋骨へ当たっていた。
「まさか、まだ何か持っているのではないだろうな」
上役が椅子から立った。私が内ポケットへ指を入れると、彼の手が机の上で開く。
「こちらへ渡せ」
私は折っていない原本を取り出した。
上役の手へは渡さなかった。
長机を回る。上役が横から腕を伸ばした。私は紙を胸元へ寄せ、その指先を通り過ぎた。
同僚たちの視線が、白い紙の動きに揃う。
雇い主の前へ立つ。
帳簿を成す原本一枚を卓へ置く。
日付のある面を上にする。
上役の自筆署名を、雇い主の側へ向ける。
紙を押さえていた指を離す。
これで、私より先に数字が残る。
「これは偽造だ」
上役が原本へ手を伸ばした。
雇い主の人差し指が、彼から最も遠い角を押さえる。紙は動かなかった。
「この女が私の署名を真似たのでしょう。三年も帳簿を書いていれば、その程度はできる」
私は自分の机へ戻った。布袋と羽根ペンを取り、椅子を収める。
使いかけのインク壺だけが、その奥に残った。蓋の欠けた側を壁へ向けておけば、次に使う者も指を切らずに済む。私は壺を半周だけ回した。
「待て。誰が退室してよいと言った」
上役の声が大きくなった。同僚たちの椅子は、まだ彼の背後にあった。
私は扉へ向かった。
「戻れ。その紙を説明しろ。おまえが書いたものなら——」
「署名を確認しなさい」
雇い主の声で、上役の言葉が途切れた。
扉の取っ手は冷えていた。押し下げると、蝶番が細く鳴る。
背後で紙を持ち上げる音がした。続いて、短く息を吸う音。
「第五の月十八日。金貨四百十二枚と銀貨五枚を上役本人へ引き渡し。運搬人へ銀貨一枚を直接支払い。合計は銀貨六枚」
告発のとき、上役のすぐ隣へ椅子を寄せた同僚の声だった。
「受領者の署名は、上役本人です」
「形式を整えるために署名しただけだ。実際には受け取っていない」
「会計係への解雇命令を撤回する」
雇い主の声が低く落ちた。
私は廊下へ出た。扉は閉めなかった。
靴底が石床を一つ打つ。二つ目を打つまでの間に、元帳の表紙が開かれた。
「元帳には十七日、銀貨七枚。告発では十八日。受領票は十八日、銀貨六枚です」
紙同士が机上で揃えられる。
「日付が合わない」
同僚の声が、開いた扉を抜けてきた。
「臨時払いは前日の日付へ戻して記すことがある。銀貨一枚は後から手数料へ加えた」
「そのような決まりはありません」
別の同僚が言った。
椅子の脚が一度、石床を擦る。上役へ寄せられていた一脚が離れた。
「元帳の追記と報告書を並べなさい」
雇い主の命令のあと、二枚の紙が置かれた。
「七の横線が同じです」
「筆跡が似ているだけだ。会計係が私の書き方を真似たのだ」
「黒いインクも同じです」
上役が何か答えようとした。喉から出た音は、言葉にならなかった。
「上役から親鍵を取り上げなさい」
椅子がさらに一脚離れた。金具の束が鳴る。
「待ってください。私には管理責任が——」
「下書きにもあります」
引き出しが開く音がした。
「銀貨六枚を消す線と、その上へ書かれた黒い七です。元帳へ押し込まれた一行と同じ書き方です」
「そんな紙は知らん」
「昨夕、あなたが書き直していました」
今度は二人の声が重なった。
「私も見ました」
「報告書の清書だと思っていましたが、同じ黒いインクでした」
三脚目の椅子が動いた。先ほど私から離れていったときより、音は短かった。
「証拠を作ったのはあの女だ。私を陥れるために——」
上役が私の名を呼びかけた。
「その名を呼ぶ前に、自分の署名を説明しなさい」
雇い主の声が、その先を許さなかった。
机の端を擦る音がした。上役が自分の椅子の背へ両手を置いたのだろう。木が二度、浅く軋んだ。
「その椅子から離れなさい」
一文だけが、廊下の端まで届いた。
しばらく何も動かなかった。
やがて椅子が押し退けられ、細かな椅子の音が左右へ散る。少し遅れて、会計部門の親鍵が震えながら卓へ置かれた。
「これは横領だけではない。帳簿を改竄し、罪のない者へ着せるための虚偽報告を作った疑いとして衛兵を呼ぶ」
「お待ちください。私は会計部門を守るために——」
「守る者は、存在しない銀貨を一枚足さない」
上役の呼吸だけが残った。
私は廊下の角を曲がった。会計室は見えなくなり、開いた扉から声だけが追ってくる。
「確認せず裁定した私にも責任がある。給与と名誉は補償する。書面を整え、本人へ届ける」
雇い主の声だった。
「会計の席を用意して、戻る意思があるなら——」
そこで言葉が切れた。
足は止めなかった。
「待て!」
上役が叫ぶ。
「会計係、戻れ! その帳票の説明をしろ!」
衛兵を呼ぶ鐘が鳴った。上役の声は、その一打で途切れた。
階段まであと十歩だった。
私は普段と同じ幅で歩いた。締め日の書類を抱えているとき、端を柱へぶつけないために身についた歩幅だった。
会計室では同僚たちの声が重なっていた。
「私どもは報告を信じただけで」
「確認を任されていたのは上役ですから」
「席を移しただけです。偽りに加担したわけでは——」
「報告へ同調した者も調べる。調査が終わるまで、締め日の処理は自分たちだけで行いなさい」
雇い主の声のあと、椅子は一脚も動かなかった。
私は階段へ足をかけた。
後ろで複数の足音が重なる。一人が駆け出すと、遅れて二人、三人と続いた。帳票を抱えているのか、紙の端が擦れ合っている。
「待ってください!」
呼び声が廊下の壁へ跳ね返った。
私は階段を下りた。布袋の中で羽根ペンが擦れ合う。
「解雇は撤回されました! 戻ってください!」
足音が近づき、帳票がばらばらと鳴った。
「会計係! 締め日の計算をできる者がいないんです」
階段の踊り場で紙が散った。
「本当に、申し訳ありませんでした」
「疑うつもりはなかったんです」
焼き菓子を渡した同僚の声だった。
告発の席で「信じていたのに」と言った声と、同じ高さだった。
「私たちも騙されていて——」
「補償もすると雇い主が」
「席も戻すと」
「ですから、どうか」
声は重なり、互いの言葉を消した。
私は次の段へ足を置いた。歩幅は変えなかった。
昨日まで揃えていた数字が頭に浮かぶ。締め日まで三日。未確認の帳票は十一枚。釣銭の不足は銀貨二枚。私が戻らなければ、六人で分けることになる。
それ以上は数えなかった。
羽根ペンの先が布袋の口を叩く。一本はもう先が割れている。もう一本も、あの紺青のインクでなければ同じ細さには書けないかもしれない。
玄関の扉を押すと、外の光が石床へ伸びた。背後で私の名の代わりに、役職が何度も重なる。
「待ってください」
「戻ってください」
「会計係!」
扉から手を離した。閉じていく隙間から、紙を拾う音と足音だけが漏れた。
私は振り返らなかった。
あのインク壺を持ってくればよかった。
次は、備品ではない紺青を、自分の金で選ぼう。
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございます。
「悪くなかったな」と思われたら、★や感想を残していってもらえると、とても励みになります。
作者ページには他の短編も並んでいます。よろしければどうぞ。




