つばめ、つばめ
視界の端を何かが横切っていった気がして視線をやれば、燕が空を裂くように飛び去って行く所だった。もうそんな季節なのかとその行方を僅かに追えば、それは我が家のカーポートの方へと向かって行った。その向こうは隣家である。はて、燕が巣をかけたのはカーポートなのか、それとも隣家の軒先か、それ以外か。俄かにその行方が気になってしまって、そちらに足を向けた。そうして私は、我が家のカーポートの片隅に燕が巣をかけている事を知った。
「そんなに風通しの良い所に巣をかけるなんて、つばめも住宅難なのかな」
帰宅した夫に燕の巣の話をすれば、夫はのほほんと言って笑った。燕の巣の下は汚れやすいと聞くから、除去した方が良いのではないだろうかと問えば、すぐに巣の位置を確認しに行って、「あそこなら別に構わないよ」と言った。
「燕が巣をかける家には幸運が訪れる、なんて聞くし。端っこの方だし。大丈夫だよ」
そうして、燕の夫婦は、私たち夫婦の家の端で同居を始めた。
◆
私たち夫婦は、結婚して8年になる。結婚して比較的すぐに、都市の郊外にあたる住宅造成地に土地を買い、将来、子供が生まれた後の事も見越して、ささやかながら一軒家を建てたけれど、未だに子供はできないままだ。子供は天からの授かりもの、と考えて、積極的な不妊治療はしていないものの、私も既に33歳。そろそろ不妊治療を視野に入れても良いのではないか、と考えている。
ところで燕の夫婦の方は、どうやら我が家の端を本格的な居住地にと決めたらしい。巣を起点に、どちらがメスでどちらがオスかは分からないものの、二羽の成鳥が忙しなく行き来を繰り返している。
「…………」
幸福の象徴。巣をかけた家には幸福が訪れる。燕と燕の巣にはそんな縁起があるらしいが、幸福をもたらすというのなら、子宝を授けてくれたりなんてしないだろうか。
「……なんてね」
迷信は、あくまで迷信。そう思いながらも、頭の隅でそんな思考が過る自分を否定できない。そんな私の思考を見透かすかのように、今日も燕は、空を真っすぐに切り裂いて飛んでいった。
◆
燕の夫婦は、無事、子宝に恵まれたらしい。程なくして、甲高くてか細い鳴き声が聞こえてくるようになった。まだ小さいのか姿は見えないが、夫婦のどちらかが巣に近づくと、巣が俄かに騒がしくなる。
私の方は、といえば、春が終わりに近づいて暑くなってきたせいか、体調の優れない日が多くなった。心配そうに仕事へ行く夫を見送り、最低限の家事だけをこなして床に入る日々。燕の事を眺める余裕はほとんどなかった。それでも、少しばかり調子の良い日に外へ出れば、燕の夫婦が忙しなく飛び回っているのが見えた。
燕の子の成長は早く、程なくして、巣の上の方から顔が覗くようになった。燕の子どもは7羽いるらしい。ひとつの巣で、一度に生まれる燕の子の平均は5羽だというから、彼らは随分と大所帯であるようだった。
「妊娠ですね」
体調不良が続いて月のものが来ない事から、もしやと訪ねた産婦人科で、私はずっと聞きたかった言葉を聞いた。エコーでは丸い袋と、小さな白い塊が見えて、白い塊の方が赤ちゃんなのだと教えられた。現実感のないまま自宅に戻れば、今日も燕が忙しなく飛び回っている。同じように暮らしてきて、8年も音沙汰がなかったのに、突然の妊娠。しかも、初めて燕が巣をかけてくれた年に。偶然なのだろうが、もしかしたら燕の夫婦が子宝をもたらしてくれたのかもしれない、と思った。飛び回る燕の夫婦と、夫婦が巣に寄る度に上がる賑やかな声を聞きながら、私はようやく、妊娠を実感していた。
◆
私の方は妊娠初期の体調不良で、一進一退の日々を過ごしていた。調子が良ければ、運動や日光浴を兼ねて玄関先に出て掃除をしたり散歩をしたりする。その時、燕の親子の姿は頻繁に視界に入った。特に、巣の近くを飛び回る忙しそうな夫婦の姿は。
夫も、燕の子たちの様子は気になるようで、早く帰ってきた日は、巣を眺めているようだった。時折、彼の口からも、燕の親子の様子を聞くようになった。
「検診、再検査だって」
妊娠は確認できたものの、まだ心拍が確認できる時期ではないとして帰され、心拍が確認できるとする週の受診を明日に控えて、夫が、先日の健康診断の結果を持って帰ってきた。そこには、バリウム検査で問題が見つかったため、医療機関を受診してほしい旨の文言が書かれていた。
「近い内に予約取って行ってくるね。大丈夫。バリウム検査って、割とすぐ引っかかっちゃうらしいから」
自分が一番不安だろうに、夫はそう言って穏やかに笑った。そんな夫に笑みを返しながら、そういえば独身の頃に働いていた会社で、胃がんになって、胃を切除した人がいたな、と思い出す。最初はバリウム検査に引っかかったんじゃなかったかしら、と。今、あの人はどうしているだろうか、と脳裏に浮かんだものの、その人の顔は思い出せなかった。
◆
「まだ、心拍は確認できませんね。また来週、見てみましょうね」
女性の産婦人科医が優しい声音ながら淡々と言う。それを聞きながら、私は再び、どこか他人事のように感じていた。会計を待つ間、掌の中でスマートフォンを弄ぶ。検索エンジンの検索窓に「妊娠 6週 心拍 確認できない」と打ち込めば瞬時に、通常の妊娠ならば、7週頃までには心拍が確認できるものなのだと情報が出てくる。同時に「稽留流産」の文字もいくつか。実感のないまま会計を済ませ、実感のないまま家へと帰る。燕の親子は今日も騒々しかった。ふと、「燕の巣で一度に育つ子は平均5羽」という文言を思い出す。普通よりも多い2羽。燕が幸運を運んでくる、という俗信と同じくらい、否、それ以上に馬鹿げている妄想だが、通常よりも多い2羽の生育が、夫の健康と腹の中にいるらしい子供の命に重なっているように感じて。
「……っ」
もしも7羽の小燕の数が減っていたら。そう思うと怖くなって、巣を見ないまま玄関に飛び込んだ。じゅくじゅくと鳴く、小燕の声が頭の中で反響しているように感じていた。
20260409
終夜烏




