第8話 便利な女
※本作には、心理的に重い描写や残酷な表現が含まれます。
苦手な方はご注意ください。
後宮には、怒鳴られなくても人は壊れる。
雪瑶は、もう気づいていた。
朝は早く、夜は遅い。
仕事の内容は決まっていない。
洗い物を終えたと思えば、呼ばれて走り、運んで、片づけて、また別の場所へ向かう。
「雪瑶、これもお願い」 「雪瑶なら早いでしょう」 「雪瑶は黙ってやってくれるから助かるわ」
断らない。
言い返さない。
顔色ひとつ変えない。
それが、ここで生きるための最短の道だと、もう分かっていた。
ある日、薬棚の整理を命じられた。
古い包みを運び、指定された場所へ収める。
ただそれだけの仕事だった。
だが、途中でひとつの包みが落ち、乾いた音を立てて割れた。
中身は、粉薬だった。
「……誰がやったの」
低い声が響く。
周囲にいた侍女たちが、一斉に雪瑶を見る。
「雪瑶が運んでいました」 「見ていました」 「注意していなかったんだと思います」
事実ではなかった。
だが、雪瑶は否定しなかった。
否定すれば、面倒になる。
否定すれば、目立つ。
「申し訳ありません」
頭を下げると、それで話は終わった。
叱責は短く、罰もなかった。
ただ――
「次は気をつけなさい。あなたは“使える”のだから」
その一言だけが、胸に残った。
使える。
それは、褒め言葉ではない。
使い潰しても惜しくない、という意味だ。
雪瑶は、その夜ひとりで水を運びながら、ふと足を止めた。
腕が重く、指先がかすかに震えている。
助けを求める視線を向けても、誰も気づかないふりをした。
気づいていても、手を貸さない。
「雪瑶なら大丈夫でしょう」
その空気が、すでに出来上がっていた。
白い布切れは、胸元にある。
それに触れることはない。
触れれば、思い出してしまうから。
守られていた時間を。
名を呼ばれなかったのに、守られていた頃を。
今の自分は違う。
ここでは、
守られない代わりに、選ばれる。
それが「便利」という評価だった。
夜、寝所に戻ると、同じ雑用係の女が小さく囁いた。
「ねえ、聞いた?」 「最近、妃の間で“扱いやすい子”を探しているらしいわ」
雪瑶は黙って布を畳んだ。
「名前が挙がってるの、あなたよ」
その声には、同情も、羨望も混じっていた。
逃げ道は最初から用意されていない。
便利だと知られてしまった時点で、
選ばれることは、もう決まっている。
雪瑶は灯を落とし、目を閉じた。
胸の奥で、何かが静かに冷えていく。
壊れてはいない。
まだ、壊れていないだけだ。
次回更新は【金曜日22時】を予定しています。
よろしくお願いいたします。




