第3話 名を残さない影
※本作には、心理的に重い描写や残酷な表現が含まれます。
苦手な方はご注意ください。
刃が落ちるその日まで、蒼影は名を呼ばれなかった。
呼ばれないまま命じられ、 呼ばれないまま使われ、 呼ばれないまま切り捨てられる。
それが影の役目だ。
処刑理由を告げられることはなかった。 告げられなかったのか、 聞く資格がなかったのか、 それすら曖昧だった。
膝をついた地面は冷たく、湿っていた。 血と鉄の匂いが、喉の奥に絡みつく。
恐怖はなかった。
ただ、胸の奥に沈んでいたものが、 ゆっくりと浮かび上がってくる。
覚えていてほしい。
それは祈りではなかった。 誓いでもなかった。 ただの、衝動だった。
思い出してほしい、ではない。 救ってほしい、でもない。
覚えていてほしい。 たったそれだけ。
それがどれほど重い願いか、 蒼影は知っていた。
覚えているということは、 忘れられないということだ。 忘れられないということは、 縛られるということだ。
それでも。
それでも、喉の奥に飲み込めなかった息が残った。
彼は、清い人間ではなかった。 欲を持たずに死ねるほど、 出来た人間ではなかった。
刃が振り下ろされる直前、 蒼影は目を閉じた。
最後に浮かんだのは、名ではない。 顔でもない。 声ですらなかった。
ただ、白いもの。
雪のように淡く、 月のように冷たい。
それでいて、触れれば確かに温度を持っていた存在。
あの人は、いつもそうだった。
誰よりも美しく、 誰よりも孤独で、 誰よりも人の心を奪いながら、 決してそれを望んではいない顔をしていた。
「……雪」
声にはならなかった。 名を呼ぶ資格など、最初から持っていなかった。
それでも、最後の最後に思った。
生きてほしい。
自分のように、 誰かの欲に使い潰されるためではなく。 誰かの罪を背負うためでもなく。
生きて、 愛されて、 それでも苦しんで、 それでも歩いていってほしい。
自分が残したものが、 あの人を縛ると知っていた。
覚えていてほしい、願った瞬間。それは欲だと蒼影は理解した。
それでも。
それでも、 あの人がこれから抱く愛も、憎しみも、復讐も、 すべてが重なり合って生きていくなら
そのどこかに、 自分の名のない影が残るのなら。
蒼影は、それでよかった。
血に濡れた掌が、ゆっくりと開く。 白い布切れが、風にさらわれる。
それが、誰のものかを知る者は、もういない。
ただその先に、 この国で最も美しく、最も呪われた存在が、 やがて後宮へと足を踏み入れることを
蒼影は、知る由もなかった。
彼が命を落としたこの日から、 本当の物語が、始まる。
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次回更新は【金曜日22時】を予定しています。
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