第2話 雪に触れた影
※本作には、心理的に重い描写や残酷な表現が含まれます。
苦手な方はご注意ください。
生きていた頃の蒼影は、自分が何歳なのかを知らなかった。
数えられなかったわけではない。ただ、数える意味がなかった。
名を持たぬ者に、年を問う者はいない。
生き延びるか、死ぬか。
それだけが、彼に許された二択だった。
初めて雪を見たのは、冬ではなかった。
後宮の外縁にある、使われなくなった古い倉の前だった。
かつては物を収める場所だったらしいが、
今は
壊れたもの、汚れたもの、
そして「いずれ消えるもの」が集められる場所になっていた。
人も、例外ではない。
鎖が擦れるたび、錆の粉が落ちる。
血の匂いと湿った空気が、肌にまとわりついて離れなかった。
罪状は知らない。知らされなかった。
「穢れた血が混じっている」
「目の色が不吉だ」
そう囁かれ、殴られ、蹴られ、使い潰されるのが日常だった。
その日も、そうなるはずだった。
「その者、まだ生きているの?」
静かな声だった。
命じるでも、責めるでもない。
ただ、事実を確かめるような声。
蒼影は顔を上げなかった。
上げれば殴られる。
それが身体に刻まれた規則だった。
「顔を上げて」
それでも声は、柔らかかった。
躊躇のあと、蒼影はゆっくりと顔を上げた。
血と埃で濁った視界の先に、白いものがあった。
人の形をしているのに、どこか現実のものではない白。
肌も、指も、首筋も、淡く光を含んでいる。
まるでこの場所だけ、別の世界から切り取られてきたかのようだった。
「……生きているね」
その人はそう言った。
哀れみでも、嫌悪でもない。
ただ、静かに事実を受け取る目。
蒼影は、その視線から逃げられなかった。
逃げたいとも思わなかった。
「この者、私にください」
唐突な言葉だった。
周囲がざわめく。
「雑用にもならぬ」
「不吉だ」
「すぐ死ぬ」
それでも、その人は首を振らなかった。
「それでもいい。
名も、身分も、今はいらない」
その言葉を、蒼影は一生忘れなかった。
それから彼は、影になった。
名を与えられ、
命じられ、
守ることを教えられた。
雪は、蒼影に多くを与えなかった。
甘い言葉も、特別な情もなかった。
ただ、必要なものだけを渡した。
衣。
食事。
剣。
雪は、しばらく蒼影の手を見ていた。
骨ばった指。古い傷。
それから、懐に手を入れ、小さな白い布切れを取り出す。
「……これを」
蒼影は反射的に受け取った。
「失くさないで」
それだけ言って、雪は目を伏せる。
一拍、間があってから――
まるで独り言のように、付け足した。
「目印になるでしょう」
理由は、それだけだった。
蒼影は何も聞かなかった。
聞いてはいけない気がした。
だからただ、深く頭を下げた。
気づいた時には、
その白い背を見失うことが、
呼吸を止められるよりも苦しくなっていた。
これは忠誠だと、自分に言い聞かせた。
胸に浮かんだものに、別の名を与えようとした。
欲でも、願いでもないと。
だが、違った。
雪が誰かに声をかけるたび、
誰かに視線を向けるたび、
蒼影の胸の奥に、静かな熱が生まれた。
触れてはいけない。
縛ってはいけない。
分かっていた。
それでも。
この時すでに、
彼の中には、言葉にならない欲が芽生えていた。
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