第14話 呼び水
※本作には、心理的に重い描写や残酷な表現が含まれます。
苦手な方はご注意ください。
雪瑶が呼ばれたのは朝だった。
「今日は別の宮へ行きなさい」
年嵩の女官が短く言う。
「掃除と香炉の整え。余計なことはしなくていい」
どの宮かは告げられない。
ただ「位のある方の宮」とだけ。
雪瑶は頭を下げた。
通された宮は、これまでより静かだった。
華美ではない。
だが整いすぎているほど整っている。
庭の砂紋は乱れず、
柱一本にさえ埃がない。
——丁寧に守られている宮。
雪瑶はすぐに悟る。
ここは、長く安定している妃の宮だと。
中に入ると、女官たちの動きも落ち着いていた。
慌ただしさがない。
声を荒げる者もいない。
この宮の空気そのものが、
穏やかだった。
「ここをお願い」
指示は簡潔だが、刺がない。
雪瑶は黙って香炉を整える。
灰を均し、炭の位置を直す。
香は控えめなものを選ぶ。
主張しすぎない香り。
誰の好みか分からぬ以上、
残らぬ香が最善。
作業を終え、下がろうとした時。
簾の奥から声がした。
「その子?」
穏やかで、柔らかな声。
聞くだけで、人を緊張させない声音だった。
雪瑶は膝をつき、顔を伏せる。
「はい、雑用係です」
側の女官が答える。
少しの間。
「丁寧に扱うのね」
責めるでも、試すでもない。
ただ事実を受け取るような言い方。
「物を大切にする子は、良いわ」
それだけ。
それ以上の詮索も、興味も示さない。
だがその言葉には、
自然な優しさがあった。
「もうよいわ」
雪瑶は静かに下がった。
廊下へ出た途端、
女官たちの空気が緩む。
「今日の子、当たりね」
「雑に扱う子だと困るもの」
小さな安堵の声。
一人が言う。
「恵玉妃様は細やかな方だから」
雪瑶はその名を、
何気なく聞き流す。
——恵玉。
ただの妃の名の一つ。
それ以上の意味は持たない。
帰り際。
年嵩の女官が珍しく言った。
「問題はなかったわね」
「恐れ多いことにございます」
「また呼ばれるかもしれないわ」
それだけ。
だが十分だった。
雑用係は宮を選べない。
だが、宮から選ばれることはある。
運ではない。
使えるかどうか。
それだけ。
その夜。
名簿を扱う女官が、
雪瑶の名前の横に小さな印をつけた。
書き換えではない。
ただの印。
だがそれは、
振り分け候補の印だった。
雪瑶はまだ知らない。
自分が
「また使いたい者」として
覚えられたことを。
そして——
この宮との縁が、
少しずつ結ばれ始めていることも。
次回更新は【金曜日22時】を予定しています。
よろしくお願いいたします。




