第13話 手の届くところ
※本作には、心理的に重い描写や残酷な表現が含まれます。
苦手な方はご注意ください。
禁薬の報告からしばらくしても、雪瑶の身分は変わらない。 相変わらず雑用係のままだった。
だが、任される仕事は少しずつ変わっていた。
水運びや掃除だけでなく、 「壊れ物を運べ」 「香炉を整えろ」 「触る前に確認を」 そう言われることが増えた。
目立たぬが、失敗すれば咎められる仕事。 ——信用がなければ回ってこない役目だった。
雪瑶は余計なことをしない。 言われたことだけを、静かに、確実に行う。
それが一番、生き残れると知っているから。
ある日。
若い妃付きの女官が立ち尽くしていた。 手には、縁の欠けた香盒。
「どうしましたか」
声をかけると、女官ははっと顔を上げる。
「妃様付きの品なの……落としてしまって……」
震えている。 申告すれば、叱責では済まない。
「……知らないふりをすれば」
雪瑶は香盒を受け取り、欠けを確かめる。 小さい。縁の裏。
「急いで御膳房へ行ってください」
「え?」
「米のとぎ汁をもらってきてください」
「そんなことで直るわけ……」 声が裏返る。
雪瑶は静かに言う。
「完全には直りません。
…でも、今日を越えられます」
女官は迷う。
「下女の私は入れません。ですが妃付きのあなたなら通ります」
その言葉で、女官は息を呑む。
——今、選ばされている。 叱責か、 この下女の言葉を信じるか。
「……本当に、分からなくなるの?」
「遠目には。今夜のうちに修理係へ回せば、誰も責められません」
雪瑶は感情を込めない。 ただ道筋を示すだけ。
女官は一瞬だけ目を閉じ、頷いた。
「……待ってなさい」
裾を翻して走る。
戻ってきたとき、とぎ汁を差し出す手はまだ震えている。
雪瑶は手早く処置をする。 とぎ汁に米粉を混ぜ、欠けた部分に静かに塗り込む。 縁を整え、布で軽く磨いた。
遠目には分からない。
「今日のところは持ちます」
女官は、香盒を両手で抱えたまま、何度も頭を下げた。
「……覚えておくわ」
雪瑶は首を振る。
「私は何もしていません」
それだけだった。
別の日。
ある宮から 「届けた薬湯が苦い」と苦情が出た。
下働きたちは顔を見合わせる。 誰の責任になるかで空気が張りつめる。
雪瑶は器を見て、 一口含む。
誰も息をしない。
「…火が強すぎました」
それだけだった。
火にかけた時間が長すぎる。 薬効ではなく、ただの苦味。
作り直せば済む話。
誰も罰せられないで終わった。
そういうことが、重なった。
誰かを救ったつもりはない。 ただ、波を立てなかっただけ。
それでも—— 人は覚える。 役に立つ者の名は、静かに残る。
「困ったら、あの子に聞け」 そんな声が、裏で広がっていく。
ある夕方。
年嵩の女官が雪瑶を呼び止めた。
「最近、よく名が出るわね」
雪瑶は黙って頭を下げる。
「余計なことはしていないでしょうね」
「しておりません」
短い返事。
女官はしばらく雪瑶を見ていたが、 やがて小さく笑った。
「……覚えられるのは、良いことばかりではないのよ」
その後に、 「はい」 だけ返す。
その夜。
名簿を管理する女官が現れる。
以前と同じように、 雪瑶の名を指でなぞる。
だが今回は、 隣の者に小さく何かを囁いた。
雪瑶には聞こえない。
ただ、視線だけが一瞬向けられた。
——値踏みする目。
雑用係のままでも、 埋もれたままではいられない。
後宮では、 目立たぬことと、見つからないことは違う。
雪瑶はまだ知らない。
その名が、 すでにいくつかの宮で覚えられ始めていることを。
そして—— 次に呼ばれる場所が、 これまでより一段、上の宮になることも。
大きな力はない。
だが、手の届く範囲なら、形は変えられる。
次回更新は【金曜日22時】を予定しています。
よろしくお願いいたします。




