第10話 静かな命令
※本作には、心理的に重い描写や残酷な表現が含まれます。
苦手な方はご注意ください。
後宮の朝は、いつも同じ音から始まる。
水桶を置く音。 衣が擦れる音。 誰かのため息と、誰かの咳。
雪瑶は、まだ薄暗い廊下を歩いていた。 夜明け前の後宮は、不思議なほど静かだ。 昼間に渦巻く嫉妬も、噂も、欲も、すべてが息を潜めている。
だからこそ、逃げ場がない。
「雪瑶」
名を呼ばれて、足が止まった。
振り返ると、年嵩の女官が立っている。 表情は穏やかで、声も低い。 叱責でも、命令でもない――そう見えた。
「こちらへ」
拒む理由は、どこにもなかった。
案内されたのは、妃たちの住まう区画のさらに奥。 香の匂いが濃く、空気が重い場所だった。
部屋に入ると、女官は戸を閉める。 静かに、確実に。
「話があるの」
その言葉も、柔らかかった。
机の上には、帳面と筆。 そして、一枚の紙。
「この件、あなたが行きなさい」
雪瑶は紙を見る。 そこに書かれているのは、命令文ではない。
“お願い”の形をした文章だった。
――調べてほしい。 ――確かめてほしい。 ――あなたなら、気づかれずに動けるでしょう。
どこにも「従え」とは書かれていない。 どこにも「拒否するな」とは書かれていない。
それでも。
雪瑶は、その紙から目を離せなかった。
「……私でなければ、いけませんか」
かすれた声で、そう尋ねる。
女官は微笑んだ。
「ええ。あなたが一番、都合がいい」
その言葉は、あまりにも自然だった。
「身分が低い。 目立たない。 失っても、誰も困らない」
淡々と並べられる理由。
「それに――」
女官は、少しだけ声を落とす。
「あなた、賢いでしょう」
褒め言葉の形をしていた。 だが、それは逃げ道を塞ぐための言葉だった。
雪瑶は、紙を握る。 白い指が、ゆっくりと震える。
断る理由は、あるはずだった。 危険だ。 面倒だ。 自分の役目ではない。
それでも、口は動かなかった。
頭の奥で、誰かの声がする。
――生きていけ。
蒼影の声ではない。 もっと昔から、染みついた声。
生き延びるためには、選ばれるしかない。
「……分かりました」
そう言った瞬間、 女官の目に、安堵が浮かんだ。
「助かるわ」
雪瑶は部屋を出る。
廊下の冷たい空気が、肺に刺さった。
手の中には、白い紙。
そこに書かれた行き先は、
とある妃の私室だった。
部屋に入ると、薬草の匂いがした。
甘くも苦くもない、
どこか懐かしい匂い。
「それを確認するだけでいいのよ」
付き添いの女官が言う。
「禁じられた物がないか、見るだけ」
雪瑶は頷き、棚に近づく。
布包みがいくつも並んでいる。
一つを手に取った瞬間、
指が止まった。
――この結び方。
見覚えがあった。
ゆっくりと包みを開く。
中には乾燥した薬草。
その匂いを嗅いだ瞬間、
心臓が強く跳ねた。
故郷の薬だった。
幼い頃、
熱を出した時に煎じられたもの。
姉が笑いながら持ってきてくれたもの。
「それ、珍しいでしょう」
老いた侍女が後ろで言う。
「昔、白髪の一族が扱っていた薬よ」
雪瑶の呼吸が、止まる。
「でも禁薬になったの。毒になるって」
違う、と喉まで出かかった。
これは毒じゃない。
命を繋ぐ薬だ。
流産を防ぐための――
「その一族、滅んだらしいわね」
老女官は何気なく続ける。
「罪を着せられて」
雪瑶は何も言わない。
言えない。
指先だけが、冷えていく。
包みを元に戻す。
震えないように。
気づかれないように。
それは、故郷の香りだった。
そして――
一族が滅んだ日の匂いでもあった。
次回更新は【金曜日22時】を予定しています。
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