第1話 欲を持たない影
※本作には、心理的に重い描写や残酷な表現が含まれます。
苦手な方はご注意ください。
※本作は架空の王朝を舞台としたフィクションです。
実在の人物・国家・制度・文化とは一切関係ありません。
その男は、死ぬことよりも、名を呼ばれないことに慣れていた。
膝をついた地面は冷たく、湿っている。血の匂いと鉄の気配が混じった空気が、喉の奥にまとわりついて離れなかった。どこかで鎖が擦れる音がする。遠くで誰かが笑い、誰かが目を逸らした。
処刑だろうと、見せしめだろうと、もうどうでもよかった。 理由を告げられた記憶はない。告げられなかったのか、聞く資格がなかったのか、それすら曖昧だ。
名を呼ばれることはなかった。
呼ばれないまま命じられ、呼ばれないまま使われ、呼ばれないまま切り捨てられる。そういう生き方に、いつからか疑問を持たなくなっていた。名とは、呼ばれるためにあるものだ。呼ばれないのなら、持っていても意味がない。
だから彼は、最後まで名を名乗らなかった。
顔を上げると、薄曇りの空が見えた。白く濁ったその色を見ていると、なぜかひとつの感触が蘇る。冷たいはずなのに、触れると微かに温かい。指先に残る、やわらかな重み。
彼は、無意識に手を握りしめていた。
掌の中にあるのは、小さなものだ。布切れか、紐か、あるいは飾りの一部だったかもしれない。随分前に渡されたものだ。意味など分からないまま、ただ「持っていろ」と言われた。それだけで、彼は従った。
従うことしか、知らなかったから。
それでも。それだけは、最後まで手放さなかった。
誰かの声がした。命令だったのか、合図だったのか、彼には分からない。分からないまま、刃の気配が近づく。恐怖はなかった。ただ、胸の奥に沈んでいた何かが、ゆっくりと浮かび上がってくる。
覚えていてほしい。
そう願った瞬間、自分でも驚いた。
祈りでも誓いでもない感情が、胸の奥で動いた。
思い出してほしい、ではない。 救ってほしい、でもない。
覚えていてほしい。 たったそれだけ。
その願いが、どれほど重いものかを、彼は知っていた。 覚えているということは、忘れられないということだ。 忘れられないということは、縛られるということだ。
それでも。
それでも、と思ってしまった。
彼は、清い人間ではなかった。 欲を持たずに死ねるほど、出来た人間ではなかった。
刃が振り下ろされる直前、彼は目を閉じた。 最後に浮かんだのは、名ではない。顔でもない。声ですらなかった。
ただ、白いもの。
冷たく、静かで、触れれば溶けてしまいそうな―― それなのに、どうしようもなく美しいもの。
掌の中のそれが、指の間から零れ落ちそうになる。 彼は、反射的に力を込めた。
その手の中にあるものが、誰のものかを知る者は、もういなかった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
本作は、報われない想いと、誰も完全には救われない愛を描いています。
蒼影編は、彼の視点から三話ほど続く予定です。
「欲」を持ってしまった彼が、何を選び、何を失っていくのか。
その行く先を、見届けていただけたら嬉しいです。
次回更新は【金曜日22時】を予定しています。
どうぞ、よろしくお願いいたします。




