第八話
-都内 科学捜査研究所-
「こ、これは……一体……?」
森は口元にハンカチを当てながら伊藤に尋ねた。その後ろでも班員達が、口に手やハンカチを当て苦しそうにしている。
それもそのはず、ゲージの中には口を赤い鮮血で染め上げたマウスと、食い荒らされて見るも無惨な残骸となったマウスの死骸が入っていた。警察官として、どれだけ酷かろうと人の遺体であれば、大概は見れるようになっている面々。だが、人と動物、しかも体を食い破られ臓物をぶちまけたそれとは、全くもって話が違う。皆一様に胃の奥からせりあがってくるものを堪えるのに必死だ。
「まぁ、結果は見ての通りなんですが、経過を撮影してあるのでこちらへ」
凄惨な光景とは対照的に、伊藤は涼しい顔をしてパソコンの前に座る。科捜研の研究員としてのキャリアを積むうちに、こういった“モノ”への感情が切り捨てられたのであろう。ここには警視庁中の案件がなだれ込む。人の変死体から虐待された動物の死体まで。いちいち感情が触れてたらきりがない。
「あの酸を投与したのはオス二匹とメス二匹の四匹。そして、それぞれのゲージにつがいとして、オスメス、一匹ずつ入れました。まず、陽メスと陰メスのゲージから。このゲージには全く何も起きませんでした。どちらの体調も良好のままです」
定点で二匹を捉えるカメラの映像は、仲睦まじく餌を食むマウスを映していた。
「次に、陽メスと陰オスのゲージ。こちらのゲージにも変化はありませんでした」
伊藤の言葉通り、先程とあまり変わりない映像が流れる。
「三つ目、陽オスと陰メスのゲージ。こちらは開始5分、変化がありました。陽オスの目が血走り始め、体の表面に血管が浮き出てきます。その後さらに歯や爪が鋭くなりました。しかし、変化はここまででこれ以上は何も」
そこそこショッキングな映像だったが、伊藤はさもつまらなそうにパソコンを操作し、次の映像を用意する。次が最後。そこにあの惨劇の理由が隠されている。森の額には脂汗がにじみ、その耳には自らの鼓動の音だけが響いていた。
「最後に陽オスと陰オスのゲージ。こちらも先程の陽オスと同じ変化が表れましたが、今度はそれだけでは止まりません。陽オスが陰オスに襲いかかり行為に及び、欲求を満たすと今度は陰オスを貪り始めました。そして、今に至ります」
言葉を発せられるものは伊藤以外にいなかった。
「これらのことから、この酸には何らかの原因でオスにのみ反応を示し、また、同性を襲わせる効果があることがわかりました」
伊藤は満足そうに話を結ぶ。
「……なるほど、早速本部に連絡を……」
携帯を取り出し部屋を出ようとする森を伊藤は止めた。
「あっ、ここ大丈夫ですよ。ここの電波撹乱装置は、精密機械のある研究室ごとに妨害しているので、一歩でも外に出れば隣の部屋でも普通に携帯使えます」
伊藤は自信ありげに言ってみせた。
「えっ……、でも……」
森は携帯を開いて伊藤に見せた。森の携帯は圏外を表示している。
「森さんの携帯古いんじゃないですか?未だにガラケなんか使って。俺のなら地下でも通じますよ、最新のスマホなめないでください!……って、あれ?」
そう言って班員の一人が自慢げに携帯を取り出したが、その携帯も圏外を表示している。それに続いてまた一人、また一人と携帯を取り出すが、どの携帯も圏外だった。機種もキャリアもバラバラ。伊藤も不可解そうな顔をしていることから、イレギュラーな出来事なのだろう。
「森さん……、これって……」
班員の一人が何か察した様な顔つきで森に尋ねる。恐らく森と同じ推論だろう。
「あぁ……、テロリストは襲撃の際、第一段階として周囲との通信を遮断する……。内線は?」
伊藤が部屋にあった内線電話の受話器を耳に当てたが、受話器は無機質に不通の音を流すだけだった。
「内線も繋がらないです……」
「自分が外確認してきます!」
そう言って班員が部屋の扉を開けたその時、ドンという地響きを伴う低い音がした。
「警視……、今の音って……」
「俺の耳が腐ってなければ、今のは爆発音で間違いない……」
具体的な情報が入ってこないままに、事態は悪化の一途を辿っていく。
「どうしますか?外に出ない事には応援が呼べません」
「ダメだ。今から出て行っても蜂の巣だろう……」
ここで待ち伏せるか。しかし、相手の人数が分からない。大勢であれば、やがてジリ貧となり押し込まれるだけである。妙案が全く浮かばない。
「……伊藤さん、このドア以外に出入口は?」
「いえ……。あっ、でも資材搬入のエレベーターが研究室の奥に……」
「まさか人は乗れませんよね?」
「五〇kgまでなら……」
森は部下を見渡したが、皆一様に首を横に振る。当然だろう、女性ならともかく全員三十路を過ぎた男性だ。ただ一つ、これで方針が決まった。
「よし、今出て行ってもどこから狙い撃たれるかわからない。防衛箇所を一か所に絞れるここに籠城する。これだけの騒ぎだ。俺たちがアクションを起こさなくとも、外部には筒抜けだろう。おい、机倒して盾の代わりにするぞ」
班員達は手際よく机上の物を退かし、机を入り口に向けて並べた。万が一相手が重火器を持っていたら、こんな机紙切れだろうが、無いよりはましだ。
「でも何で奴らここを襲撃したんでしょう?」
「あの見つかった酸がそれほど大切な物ってことだろ……。おい、ちょっと静かにしろ」
森は扉に聞き耳をたてる。扉の向こうでは複数の足音や、金具のぶつかるような音がしていた。
「おい、来たぞ。銃構えろ」
森は机に身を隠し、腰のコルトガバメントを抜いた。班員もそれに倣う。
掌に嫌な汗が滲む。SIT時代に幾つもの死線をくぐり抜けた森だが、今ほど死を身近に感じたことは、”愛知の一件”以来にない。
その緊張の糸を切ったのは、突然鳴り出した森の電話だった。
森は訳がわからないまま電話に出る。
「……もしもし?」
「おぅ、俺だ。大丈夫か森?」
相手はさも何気ない会話をするような声で応じた。
「……誰だ?」
「だから携帯を名前が表示されるように設定しろって言ったろ!俺は狙撃班の床野だ!お前と同期の床野直人だよ!」
「床野?お前本当に床野か!」
「あぁ、そうだよ」
久しぶりの同期の声に、森の顔が否応にもほころぶ。森と床野は警察学校の同期生で、SITで共に戦っていた。だが共に戦うと言っても、捜査員の森と狙撃手の床野では顔を合わせる機会が少なかった。A.K.S.P.に移ってからも、捜査で全国を飛び回る森と、訓練施設に籠りきりの床野が顔を合わせることは難しかった。
「特急一の上津も来てる。安心しろ」
ほっと胸を撫でおろしつつも気になることが二つ。
「でも、何でこんな早くに?というかジャミングは?」
「西川警視長がすぐに異変に気付いたんだ。科捜研に入ってしばらくしたら、お前らの携帯や車両の反応が消えた。最初、科捜研のジャミングに引っ掛かったんだと思ったが、西川警視長が固定電話にかけてみろって言って、かけてみたら固定電話すら繋がらなかった」
あの指揮官はなかなかの切れ者のようだ。
「それで飛んできてくれたわけか」
「そ、まさしく飛んできた。それとジャミング機器は見張りと共に排除済みだ。ま、そういう訳だから安心して待ってろ」
「あぁ、安心して籠城して……」
その時だった。突然の爆発に旧友との会話を切り裂かれ、爆風に吹き飛ばされながらも、森は机の裏に身を隠した。
ドアは部屋の中に倒れこみ、黒く焼け焦げている。森の隣では班員の一人が頭から血を流して動かない。
「おい、しっかりしろ!……くそ!早く病院に運んでやらないと……」
倒れた班員越しに入り口を見ると、扉の向こうから手が伸びてきて、中に向けてAK-47を乱射した。放たれる弾丸が部屋のあちこちに当たり、跳弾して頬を掠める。盾代わりに倒した机は、早くも貫通した痕が何か所か見られた。隠しきれない手詰まり感に、冷や汗がつたう。
すると、伊藤がおもむろに倒れた班員から銃を取りあげて、突き出されたAK-47を持つ敵の手を撃ち抜いた。
「あんた一体……」
「趣味で射撃してるんです。それでも拳銃は初めて手にしましたけど……。それより、研究室の除染が完了しました。そっちならもう少し時間が稼げるかと……」
「わかった移動しよう」
森は班員に合図を送り、二人が机から身を乗り出して発砲し、入り口の向こうを牽制する。その間に森ともう一人で倒れた班員を運び、奥の研究室に入った。