第七話
-A.K.S.P. 捜査班室-
捜査班室で書類整理をしていたのは、元愛知県警SITの管理官で、きれいに切りそろえられた短髪と、メガネが印象的な捜査四班の森明大警視。口元にでき始めたほうれい線を伸ばすかのように、頬杖をついて資料を捲る。するとデスクの電話が鳴り、ディスプレイは見慣れぬ番号を表示していた。
「もしもし?」
「初めまして。私、科捜研の伊藤と申します。例の酸の解析が終了しました。かなり興味深いことがわかりましたのでその報告をしたいのですが今から来て頂けますか?」
電話の向こうで伊藤と名乗った男性は、興奮しぎみに一気に喋りきる。どうやら相当のことが分かったのだろう。一刻も早く向かった方がよさそうだった。森はすぐに腰を浮かせる。
「わかりました。では今すぐそちらに向かいます」
森は手短に電話を切ると、班員を連れて部屋を飛び出していった。
-都内 科学捜査研究所-
森らが乗ったマークXとゼロクラウンがゲートに着くと、警備の警察官が一瞥してから直ぐにゲートを開けた。その警察官に指示されたのは一番奥の研究棟。建物の前の駐車スペースに車を停めて中に入る。
ロビーには、細身で背が高く丸眼鏡をかけ白衣を着た、いかにもな研究員の男性が待っていた。
「お待ちしておりました。お電話させて頂いた、科学捜査研究所研究員の伊藤友喜です」
「A.K.S.P.捜査四班の森明大です」
「では早速ですがこちらへ」
伊藤は身に纏う白衣を翻して颯爽と歩き出す。施設の規模に対して、廊下を行き交う人が少なくも感じられたが、そもそも研究施設である。実験や検証を行うのに部屋と部屋を行きかう必要はたいしてない。
そんな人のまばらな廊下を進み、研究棟の奥の薄暗い階段を一つ降りると、バイオハザードと書かれた重厚そうな扉があった。見るからに怪しいその扉を前に、自然と足が止まる。
「これは……」
うまく言葉が続かない。採取されたのは酸、すなわち化学薬品だと聞かされていた。しかし、目の前で待っているのは、明らかに生物災害の危険性を知らせている。
「安心してください。一応細菌関係の鑑定用に作られましたが、実状としては危険なものは全てここに、みたいな感じになってるんです。今回のもその勢いでここにきました」
森は、結局危険じゃないか!と叫びそうになるのを後一歩のところで踏み止まった。そうこうしている間に、何のためらいもなく伊藤は中に入っていく。森も班員達と共に、黙って伊藤の後に続いて部屋に入った。
部屋の中は白を基調にされ、数台のパソコンとデスク、資料の詰まった棚が置かれていた。そして扉の向かいの壁には、左隅にまたドアがあり、何よりそのドアの隣から壁の反対の端を結ぶ大きな鏡が目を引いた。明らかに部屋と不釣り合いなその鏡に森は興味をひかれたが、とりあえず気にしないことにした。
「そちらに座ってください」
伊藤の勧めに従い、森達は中央に置かれた机の周りに並べられたパイプ椅子に座る。
伊藤は棚から幾つかのファイルを選んで取り出し、机に持って来ると五人に見えるように広げて並べた。
「早速ですが結論から言うと、あれは酸の一種で間違いはありません。ただですね……」
伊藤は一番上のファイルの開いているページを指差して見せた。ファイルには元素記号や用語が並んでいたが、文系の森にはさっぱりわからない。伊藤の方も、決してこれを一瞥して理解してもらおうとしている風ではなかった。
「どうも今までに知られている酸とは、構造が異なるみたいなんです」
そういって伊藤は難しい顔をしたが、こちら五人はもう諦めかけた様な顔だ。それでも少しでも理解して帰らねば意味がない。
「と言うと?」
「これを見てみてください」
伊藤はそこから二、三枚ページをめくった。そこには風邪薬のパッケージ等で見かける六角形が描かれている。森の脳裏に、何十年か前の高校時代の授業がよみがえる。だがその曖昧さは到底この話の理解を助けられない。
「これは、ベンゼン環というもので、炭素六個、水素六個を基本形体とした六角形の化合物です。これ自体は何てことはないのですが、問題はここです」
伊藤の指はベンゼン環の下の方を指した。五人がファイルを覗き込む。
「このベンゼン環は水素の代わりに、または水素との間に物質を置くことで、別の物質に変化します。今回の物質は、水素と置き換える置換反応という反応を起こし、水素の代わりに、B、ホウ素と、Li、リチウムがあったのですが……」
「それは今まで知られている酸ではなかった……。ということですか?」
伊藤は黙って頷く。
「詳しい生成方法は大学等の、より専門的な機関に持っていかないとわからないですね。それより、ここからが本題なんです」
「えっ?」
森だけではなく、班員も皆一様に驚いた顔をしている。そもそもA.K.S.P.からの依頼はまだこの一件だけで、本題も何も聞くべき話はこの物体の正体だけのはずだった。
「頼まれないことだったのですが、勝手にあの酸をマウスに投与したんです」
伊藤の言葉に森は眉をひそめる。大急ぎで人を呼び出すだけの何らかの成果はあったのだろうが、この勝手はいただけない。科捜研の役目は科学捜査の研究と、現場遺留物の鑑定である。生物実験など職域の逸脱も甚だしい。
どう対応したものか悩み表情が曇る森とは対照的に、伊藤の表情はまるで宝物を見せようとする子供の様だった。
伊藤は鏡の前まで歩み寄ると、近くのスイッチを押す。すると、鏡は透明なガラスに変わり、向こう側が見えるようになった。ガラスの向こうは、森の想像していた研究室が広がっている。同じように白を基調にした部屋だが、こちらは様々な器具や機器が整然と並べられていた。どれも名前は分からないが、きっと鑑定用の機器なのであろう。それらを消防隊が保有しているのと似た、オレンジ色の陽圧式防護服を着た研究員が操り作業をしていた。
伊藤はスイッチの横にあった、埋め込み式の小さなマイクのスイッチを入れ、中の研究員を呼んだ。
「本橋さん、被検体E-57を持ってきてください」
本橋と呼ばれた研究員は、さらに奥の部屋に向かう。そこから一つのゲージを持ってきて、ガラスの前のテーブルに置いた。
そのゲージの中は、まさに地獄絵図だった。