第五話
-東京都杉並区 住宅街-
普段は夜の十時も過ぎれば、この辺りの閑静な住宅街には歩く人影はほとんど無い。
だが、この日は違っていた。
通りの向こうから五人の男達が歩いてくる。歴代最年少にして鳥取県警捜査一課長を務めた、いまだ若いというよりも、幼い印象の稲田警視率いるA.K.S.P.捜査三班のメンバーだ。
捜査班は、機動捜査班が街頭警戒や事件現場に駆け付けるのに対し、機動捜査班の後を継ぎ、全事件の捜査及びアジト捜索を行う。
「にしてもビックリしましたよね。第五の事件の目撃者が今さら犯人の重要な特徴を思い出すなんて」
稲田より二つ下、班最年少の班員が声をかける。
「確かにな。ま、これで捜査が進展すればめっけもんだ」
「でも大丈夫ですか?こんなざっくりしたタレコミ信じて。稲田警視童顔だから、罠だったりして」
今度はうって変わって、稲田より一回り以上年上の班最年長の班員が声をかけた。その表情はまんざら冗談を言っている風でもなく、真剣だったが稲田は意に介さない。
「大丈夫ですって。童顔て言っても、もう三十五ですよ?俺なんか襲わないですって」
あくまで軽口ととらえて笑って答える稲田だったが、その笑顔は直後に硬直する。
「グフフ……」
行く手をふさぐ上背のあるその男は下品な笑みを浮かべた。
「熊田だ!」
「至急、至急!捜査三班より本部!熊田に遭遇!応援を……」
突然の出来事に騒然とする五人に熊田が飛びかかる。
稲田は間一髪でかわし、腰に携えたP230JPを取り出した。安全装置を外し、スライドを引いて薬室に弾をこめ、胸の前で突き出すように両手で構える。
「動くな!動けば撃つ!」
稲田は眼光鋭く睨み付けたが、熊田は下卑た笑みを浮かべた。
「何が可笑しい?これは脅しじゃない!」
より一層語気を強める稲田だが、熊田に怯んだ様子はない。むしろ稲田自身に妙な胸のざわめきが起きた。
「グフフ……。お前に……、俺は撃てない!」
勢いよく飛びかかる熊田に、稲田は意を決して引き金を引く。射撃の腕は決して悪くない、自信はあった。乾いた音と共に、銃弾と薬莢が飛び出す。
しかし、熊田には掠りもせずに民家の塀にめり込んだ。
「……こいつ、銃弾を避けやがった……?」
「グフフ……。だから撃てないと……、言っただろ!」
熊田は毛にまみれた手で稲田を軽く払い飛ばした。そのままの勢いで電柱に体を強く打ち付けられ、息も絶え絶えになる。肋が一本確実にいかれただろう。体を動かそうとするも、首から下に一切力が伝わらない。
「くそっ……」
口から滴り落ちる鮮血が、真っ白なワイシャツを赤く染め上げた。
「さぁて……、夜食だな……。だがその前に……、掃除だ!」
熊田は班員の四人の方に向き直る。最年少の班員が思わず後ずさった。
「く、くそ、撃て!撃て!」
四人は一斉に引き金を引いたが、一発たりとも熊田には当たらない。それどころか、逆に一気に間合いを詰めてきた熊田がその鋭い爪を振り下ろす。
すると、先ほどの最年少の班員の左腕が、まるで切り落とした枝のように無造作に地面の上を転がった。一瞬の間を置き、切断面から血が吹き出るのと同時に、激痛が脳を直撃する。
「ぅぐあぁぁぁぁぁぁぁっ!」
「おい!しっかりしろ!」
断末魔のような悲鳴を上げる班員に別の班員が駆け寄る。
「……早く逃げろ!……殺されたいのか!」
稲田は残った力を振り絞り叫ぶ。
「しかし……、警視を置いていけません!」
そう言って、最年長の班員が銃で牽制しながら近付こうとする。
だが、捜査員は大規模な銃撃戦の可能性が低い普段の捜査活動においては、逆に邪魔になることから予備の弾倉までは持たされていない。すなわち、今使用している弾倉を使い切り次第、この化け物を相手に丸腰となる。
そして今まさに、弾倉の半分の四発目を撃った。
稲田は咄嗟に銃を握り、銃口を自分のこめかみに押し付ける。人を統べる者は、時に厳しくあらねばならない。他人に、そして誰より自分に。
――苦肉の策だった。
「な、何をしてるんですか稲田さん!」
「……俺が死ねば、……皆行けるな……」
「バカなことは止めてください!警視!」
年季の入った怒鳴り声をものともせずに、稲田は引き金に掛けた指に力を込めた。
一際目立った銃声が辺りに鳴り響く。
だがそれは稲田の銃が発した音ではなかった。それどころか、熊田の肩から血が流れる。
「誰だ?」
熊田が振り替えると、黒いアサルトスーツに身を包み、完全武装した隊員が車両から降り立つところで、その手前には五人の男女が立っていた。
「A.K.S.P.よ!大人しくしなさい!」
凛々しく言い放ったのは、元埼玉県警STS管理官で捜査第一班班長の虎藤里奈警視。背格好は警察官としては小柄な部類ながらも、その凛々しい目つきが放つオーラは、そのハンデをものともさせない。
「虎藤さん……」
「大丈夫、稲田君!」
武装隊員は絶えず手に持つMP5を撃ち熊田を牽制する。その中に一人、一際体格の良い隊員がいた。
その隊員は虎藤と一緒に稲田に近付く。
「特殊急襲一班班長の上津だ。階級はお前と同じ警視」
バラクラバの奥に見える彫りの深い目が、その潜り抜けてきた場数の違いを物語る。それもそのはず、上津は元警視庁SATの中隊長。まさしく首都警備最後の要たる部隊の長を努めてきたのだ。もっとも、その部隊の特殊性ゆえ、その栄光は一生語られることはない。
「すみません……面倒かけて……」
「構わない。それより用件を言う。今から我々は熊田を確保しに行く。よって恐らくお前の事を守りきれない」
そう言うと、上津は太股に巻き付けたサイホルスターからH&K USPを取りだし、稲田の手に握らせた。
「バカなことにだけは絶対使うな……」
上津の声を掻き消すように、低く重たいローター音が頭上で止まる。
「ようやく来たか……」
上津の視線の先では、一機の迷彩柄の戦闘ヘリが驚くほど低空でホバリングしていた。素早く強力な矢を放ち、圧倒的な戦闘力を誇ったアメリカ原住民族の名を愛称に冠した、AH-64Dアパッチである。その凄まじい爆音に、銃声には怯えて窓を閉め切っていた近隣の住民も、何事かと窓を開け放ち様子を窺う。
そんないくつもの視線を浴びた戦闘ヘリの機首の下から突き出たチェーンガンは、常に熊田を捉えていた。中には佐賀県目達原駐屯地に駐屯する第三対戦車ヘリコプター隊に所属していた、陸上自衛隊屈指のヘリパイロット、芝満一尉と小野俊介一尉が乗っている。初めは使い慣れた機体の使用を上申したが、佐賀から、しかも第一線の機体を移動させることに防衛省が難色を示した。むしろ防衛省は万が一の損失に備えて、AH-1Sを使わせたがったが、二人が断固拒否。折衷案として茨城県霞ケ浦駐屯地の陸上自衛隊航空学校の機体を使用することになった。
そんなプロ意識の強い二人だが、この二人には”仕事を楽しみすぎる”という致命的な欠点があった。
「ヒャッホー!実戦キターッ!」
小野は操縦席で少年のような満面の笑みを浮かべる。
「クマさん発見!狙い撃つぜ!」
前のガンナー席に座る芝が、射撃用のレバーを握り、ボタンを押すとチェーンガンが火を噴いた。
だが、熊田はそれを素早くかわし、物陰に身を潜める。
その後を追うように、チェーンガンから放たれた30mm弾がアスファルトに穴を空けていく。
「あの野郎隠れやがった!早く追いかけろ!撃てねぇだろ!」
「今やってんだろうがよ!」
小野は僅かに操縦捍を倒し機体を傾けると、足元のペダルを踏み目一杯テールローターを回してほぼ直角に曲がってみせた。
しかし、そこにすでに熊田の姿はない。
「チッ……本部。こちらヘリ一。熊田を取り逃がした。送レ」
その敗戦報告を受けたのは、オペレーターもこなすIT班の班員ではなく西川本人だった。
「こちら本部西川。了解しました。ご苦労様です。これ以上の追撃は市民への被害が出かねないので中止します。終ワリ」
「腰抜けが……」
ため息混じりに芝が呟いた。だがそれは、敵を逃した悔しさというよりも、遊びの時間を切り上げられた子供の不満に近く聞こえた。
「腰抜けで結構。あくまでも市民の安全を第一にします」
「了解……」
改めて慎重に無線を切ると、後ろの席で小野が腹を抱えてゲラゲラ笑っていた。
「うるせぇんだよてめぇは!」
「あ?やんのか?」
結局二人はこのまま揉めながら駐屯地まで戻り、西川にこっぴどく叱られることとなる。
こうしてこの日、初めて警察は熊田に一矢報いることができた。
だが、その代償は将来のある若い警察官一名の片腕という、あまりにも大きすぎるものだった。