第四十一話
-静岡県沖 洋上-
照りつける陽射しの下、白く巨大な船が一艘、穏やかな海を航海していた。
天気は快晴で、心地好い風の吹くまさに航海日和といった様子だが、これを船乗り達はこう呼んだ。
"嵐の前の静けさ"
と――
-横浜市 海上保安庁第三管区海上保安本部-
ここ第三管区海上保安本部は、西は静岡から東は茨城の首都圏の沿岸と、南は小笠原諸島、南鳥島、沖ノ鳥島を含めた広い外洋を警備している。
そんな三管は、この日は迫り来る台風に慌ただしくなっていた。
「台風の様子はどうなってる?」
大勢の情報官に囲まれた指揮官が問う。
「気象庁からの情報では台風の中心点は愛知県沖を通過、強風域は既に神奈川県南部まで到達。勢力は未だ強大で現在中心気圧は940hpaまで低下、尚も低下の恐れがあるそうです」
台風は930hpaを下回ると所謂猛烈な台風と呼ばれ、大災害を引き起こすようなる。現在愛知県沖にあって940hpaより低下しているとあらば、関東圏に到達するころには凄まじい被害も覚悟せねばならないかもしれなかった。他の情報官から、現地の保安署、保安部、及び巡視艇からも概ね同じような報告が上がってきてると補足が入る。
「そうか……。では各海上保安部、保安署に連絡!民間船舶への早急なる帰港呼び掛けと、消防、警察と共に沿岸部の警戒の徹底!それと、いつでも出場できるように、救難体勢で待機させろ!」
「了解!」
情報官はそれぞれの席に戻り、各地の保安部、保安署や、関係各機関に連絡を取り出した。
そんな中、指揮官は一人の女性情報官に近づき、耳元で囁く。
「SSTはどうした?」
「現在訓練を予定より早く切り上げ横浜に向けて帰還中。とりあえず、台風の暴風域からは逃げ切れるかと……」
「そうか、ならいいんだ……」
指揮官が言葉少なに短くやり取りを済ませ自らの席に着こうとすると、遠くで男性の情報官が叫んだ。
「救難信号!……シージャックです!」
"最悪だ"指揮官はその言葉を呑み込み、冷静さを保つ。ここで長たる自分が取り乱しては決してならないと強く自分を律した。
「……わかった。詳細情報を!」
「はい!……静岡県伊豆半島沖、四国海洋大学、遠洋実習船"しらなみ"よりシージャック信号を受信。同時に例の熊田を名乗る者より犯行声明が大学に入電。なお該船は南南西……、台風暴風域に向けて航行中……」
「最悪だ……」
ついに漏れ出たその言葉が、この事件の深刻さを言い当てていた。
-立川市 A.K.S.P.会議室-
連日のように羽田空港に迷惑をかけ、その後始末に追われていた西川のもとに、一本の電話が入る。
受話器の向こうの声は聞きなれぬ男性の声で、相手は海上保安庁第三管区海上保安本部の本部長と名乗った。本部長は努めて冷静に熊田によるシージャックの件を伝えてきたが、その裏に遂に自分達に、海に、海上保安庁にお鉢が回ってきてしまったという絶望感が透けて見える様だった。
「……なるほど、詳しくはパソコンに……。はい、失礼します」
西川は受話器を置くと、おもむろに立ち上がる。
「熊田によるシージャック事件発生!海上保安庁からの応援要請により、我々も臨場します!まずIT班は海保から送られてくる情報の解析。それと特急二、山地班はヘリ三で現場付近に展開してる巡視船へ」
「了解しました」
元沖縄県警SAT中隊長で現特急二班班長の山地は、班員を集め手短に指示を出すと真っ先に部屋を飛び出していった。
「それと、中田班はヘリ二で横浜の三管にある対策本部へ。その他ここにいるものは対策室設営!」
西川の声に全員一斉に返事もそこそこに動き出す。西川は書類を片付けながら、雲行きが怪しくなり始めた窓の外の空を見つめた。
-伊豆大島沖 洋上-
ここにも台風に向けた進路をとる船がいた。
海上保安庁の巡視船、"いず"と"しきしま"だ。
巡視船いずは、阪神淡路大震災の教訓をもとに建造された海保初の災害対型巡視船であり、大規模災害発生時の現場指揮能力や、救援物資の運搬能力などを高めた、警察力よりも災害対応力に重きを置いた船である。一方の巡視船しきしまは、かつて行われたプルトニウム輸送の護衛を目的として作られた海保最大の巡視船であり、その大きさは海上自衛隊の大型護衛艦にも比肩する。特異なのはサイズだけでなく、二万海里を超す航続距離と潤沢な武装、そしてなにより防御力向上のため外向きの窓は艦橋以外一切取り付けられていない点である。その出で立ちは最早、巡視船というより軍艦と言えた。
そんな二隻は偶然にも、近海で洋上でのシージャック対処訓練を行い帰還するところだった。そして、しきしまの船内にはこの訓練の主役、特殊警備隊が乗船していた。彼らは、専属のヘリ、スーパーピューマに淡々と機材を積み込む。
そこへ、A.K.S.P.山地班を載せたヘリが到着した。しきしまの甲板はSST用のヘリ二機でいっぱいだったため、いずの甲板に着艦する。警察ヘリを操縦していれば、当然船に着艦することなどまずないが、ベテラン機長は風と波で揺れる不安定な甲板にすんなりと機体を下ろした。
山地達がヘリから降りようとすると、着艦指示をしていた海上保安官が駆け寄って来た。風に飛ばされないよう両足を踏ん張り、風にかき消されないよう怒鳴るように呼び掛ける。
「すみません、思っていたより台風と該船の進行が速く、該船の上空がまもなく強風による飛行制限がかかってしまうので、このまま向かってもらいます」
「ブリーフィングは?」
「機上で指示します」
「そうだ、燃料補給は……」
山地が振り向くと、機長は左手の親指を突き立てて見せた。どうやら大丈夫ということらしい。
「……わかりました。行きます!」
山地は海上保安官に敬礼し、ヘリのドアを閉めた。ヘリはローターの回転数を再度上げ、いずを離艦する。そして、すでにSSTを乗せて上空で待機していた海保のヘリの後ろに付く。三機のスーパーピューマは、その体を僅かに前に傾け、シージャックされた実習船に向かった。
-横浜市 三管臨時対策本部-
ヘリで乗り付けた中田達が案内されたのは、小さな会議室。案内した保安官曰く良い部屋が無かったそうだ。案の定、薄暗く狭い部屋の中は戦場と化していた。
混沌とした状況に中田達が呆然としていると、男性が一人駆け寄ってくる。
「A.K.S.P.の方ですか?」
「あっ、はい。A.K.S.P.の中田です」
「御苦労様です。早速ですが、皆様には犯行声明の解析等々、対熊田の専門的事象の対応を願います。我々としては別のテログループが熊田らを模倣し、隠れ蓑としているだけの可能性も考えています」
明らかに浮足立つ室内とは裏腹に、その対処方針は実に冷静に見え、中田は内心で感心していた。
「賢明な判断ですね。その線も含めてこちらから公安にも探りを入れてみます」
中田は軽く会釈し、班員と共に空いた机を囲み、対策を練りだす。
「とりあえず、最近行動が活発になりだしたテロ組織、過激派、その他危険団体を公安、A.K.S.P.本部サーバーからリストアップ。それと、海保と四国海洋大学のパソコンに送り付けられた犯行声明の出所をIT班に依頼。以上」
-A.K.S.P.ヘリ三 機内-
装備の最終チェックを行っていた山地班の無線が鳴った。
「SST部隊長榊より特急二班」
「こちら特急二班班長山地」
「聞いているとは思うが本作戦はSST、私の指揮下に入ってもらう」
わかっていますと山地は苦笑いで答える。海は彼ら海保の領域であり、人の家で好き勝手するほど山地は我が強くはない。
「別段作戦はないが、我々は操舵室と機関室を優先的に制圧にかかる。貴隊は各船室をあたってくれ」
短く了解の旨を伝えて無線を切ろうとすると榊はまだ続けた。
「加えて、少数名乗り込んでいる女子生徒が危険にさらされている可能性がある。早急な発見と保護を忘れるな!……と、あんたらの指揮官様直々の"御助言"だ」
この口調から察するに、榊自身その危険性を見落としていたのだろう。それにしてもうちの指揮官様は本当に頭の切れる人間のようだ。時より恐ろしくなる。
「さぁ、もうそろそろ着くぞ!」
榊の声に山地を含めた班員達は窓の外を眺めた。先ほどからヘリの揺れの変化と共に感じてはいたが、外の天気は大きく一変。分厚く黒々とした雲に覆い尽くされ、雨が激しく叩きつけ風が吹き荒れている。百戦錬磨の班員達と言えども、ここまでの悪天候の中で、しかも波に揉まれる船の上へのリペリング降下をした経験など、あろうはずがない。着地をミスすれば荒れ狂う太平洋へ真っ逆さま。二度と上がってこれないだろう。背中を脂汗がつたう。
「該船発見。接近する」
ヘリが船に向けて降下していくと、機体のあちこちから金属音が響いた。
銃撃だ。
「敵襲!一旦離脱……」
「構うな!」
山地は機長に向かってそう叫ぶと、いきなりヘリのドアを開け放つ。その瞬間、機外から一気に荒れ狂う風雨が雪崩れ込み、機内は一瞬にして水浸しになった。山地は黙って携行していたMP-5を構えてドットサイトを覗く。船上でこちらに銃を向ける人間がちらちらと狭い視界に見切れるが、激しく風に煽られているヘリから、激しく波に揺られている船上の人間に狙いが定まる訳がない。特にこの銃は狙撃用ではなく、面制圧や牽制を目的としている。山地は短く息を吐き、半ば勘で引き金を引く。放たれた弾丸は風に僅かに軌道を変えつつ、降りしきる雨を弾いて、見事にテロリストの脳天を貫いた。
「今だ!降下する!」
山地はロープを投げ下ろして配置に着き、周りもそれにならう。
「降下!」
「降下!」
雨で滑りやすくなったロープをしっかり掴み降下する。
山地らが降り立ったのは前部甲板。SSTは第一小隊が操舵室上部、第二小隊が後部甲板に降下した。
「前部甲板クリア。行くぞ!」