第三十八話
-埼玉県上空 JAL524便-
コックピット内は、まるで時間が止まったかのように誰も動かない。特に機長席に座る谷中は息をしているかも怪しいくらいだ。
「……今なんと?」
谷中は無線の向こうの管制官に尋ねる。
「羽田は……、いえ、関東圏は嵐です……。思ったより低気圧が強く、長く留まってしまって……。一応、風速は離発着制限内ではあるのですが……。そうだ乗員は、パイロットは無事ですか?」
「残念ながら……、全員テロリストでした……」
管制官はまさしく言葉を失う。いや誰であろうとこんな前代未聞の事態、言葉を失わざるを得ない。
「なので、操縦は私が行うしか……。まさか、乗客に任せるわけにはいかないので」
「それはそうです!……なら、燃料はどのくらい残ってますか?」
目の前に広がる計器を見つめるが、何が何だか全くわからない。生まれる無言の時間に管制官が色々と察する。
「……そうですよね。わからないですよね。今どちら側の席に座っていますか?」
「えっと、左です」
「機長席ですね。そしたら右手の両座席中央あたりの計器がそうなんですが、右の席には誰かいますか?部下の方とか」
「えっと……」
谷中が振り向くと斉藤が席に座り、ヘッドセットを着けた。
「スカイマーシャルの斉藤です」
「あの試験搭乗なされていた斉藤さんですか?ご無事でしたか!いやぁ良かった。警察官とはいえ、素人の女性にジャンボのパイロットを任せるには不安でしたから」
声色が明るくなった管制官に、斉藤が絶望的な状況を伝える。
「いえ、腕を撃たれて操縦は……。ただ、ある程度のサポートならできます。で、燃料ですよね。……四百ガロン切ったところです」
「四百……」
そう言った後一度声が遠ざかり、無線の向こうで何か揉めている様子だった。
「どうしました?」
斉藤が無線に問いかける。
「いえ、雲の無い天気の安定している空港の中で、最寄りである静岡空港に向かってもらおうとしたのですが、今南西の強い風が吹いていて、燃料がギリギリの可能性が……」
それでも安全ならと言いかけて斉藤が口ごもった。谷中は訳がわからず斉藤の顔を見つめる。
「たぶん、管制塔も同じ考えだと……」
「えぇ……。正直言いまして、どちらもプロでさえ厳しいプランです。本当は素人に任せられません。ただ……」
「ただ?」
「静岡のプランの場合、やり直しがききません。最高の条件で飛び続け、一発のランディングでギリギリ……。最悪、それでも足りるか……」
「なら、嵐の羽田……」
谷中はシートに力なくもたれかかる。
「今はオートパイロットですよね?」
「はい」
「そしたらもうしばらくそのままで。下手に触るとオートパイロット機能が解除されてしまうので」
「わかりました」
谷中は斉藤に教わりながらシートを後ろに引いて伸びをした。そのままゆっくり手を下ろし、両手を眺める。この手に五百人の命がかかっていると思うと、強い寒気に襲われた。なぜ自分なのか、正直代わってもらえるのなら代わってもらいたい。考えても詮無いこととはいえ、同じ考えが頭の中を堂々巡りし続けた。
-東京国際空港 国内線管制塔-
JAL524便の着陸が羽田に決定し、着陸予定を目前に控えた管制塔の中は、さながら戦場のようだった。
「All Nippon 3885 cancel departure clearance」
「Sky Mark 206 cicle the airport」
「Air Do 96 creald to land continue approach」
「おい!もうすぐ来るぞ!」
焦った一人が怒鳴った。
「そんなこと言っても片付きませんよ!」
管制官は、足下に散らばる便名の書かれたプレートを蹴り飛ばした。管制室が静まり返る。羽田空港はラッシュ時ともなれば、一時間当たり数十本もの離発着便を抱える大型空港。アクシデントに備えて滑走路と空港上空を空にするというのは無理難題に近い。それは誰もが分かっていたことだった。
「……すまない。……そうだ、消防は?」
「航空局、東京消防庁共に連絡済み。runway 34 right脇で待機してもらってます」
「国際線まもなくひと段落しそうです」
「なら……、あとは天気……」
管制官達は窓から外を眺めた。黒い雲が立ち込め、激しい風雨が吹き付ける。
「運よく抜けるかと思ったんですが……、ちょっと長引いてますね」
「……仕方ない、そろそろ降下開始ポイントだ、無線を繋げ!」
「はい!」
管制官達はまた慌ただしく動き始めた。それぞれが奇跡を祈りながら。
-東京都上空 JAL524便-
機長席に座り固まっている谷中のもとに、運命の無線が入った。
「こちら管制塔。これより降下を開始してもらいます。まずシートベルトを締めてください」
二人は無言でシートベルトを締めた。
「斉藤さん、聞こえていますか?」
「はい、何でしょう?」
「飛行管理装置はわかりますか?」
「はい、旅客機マニアをなめないでください!……あっ……」
我に返った斉藤が振り向くと、谷中がふーんという目で見ていた。何とか取り繕おうとする斉藤に、構わず続けるよう促す。こうなっては頼もしい限りでもある。
「ではそれにrunway 34 rightと入力してください」
斉藤は座席左手横にあるキーボードを手早く迷ったそぶりもなく操作する。おそらく若くしてスカイマーシャルの試験搭乗員に選出された理由は、先の戦闘能力だけでなくこの辺りにもあるのだろうと谷中は感じた。
「できました」
「そしたら谷中さん、しっかり操縦捍を握ってください」
谷中は震える手で操縦捍を握る。今まで何の気なしに飛行機を利用していたが、パイロットとはいつもこんな狂いそうなほどの重責を背負い飛んでいたのかと痛感する。
「……握りました」
「では斉藤さん、オートパイロットのスイッチを切ってください」
斉藤はゆっくりと手を伸ばし、スイッチを切った。すると、谷中の握る操縦捍が急に重たくなる。
「大丈夫ですか?」
「えぇ、なんとか……」
「次に、軽く操縦捍を左にきりながら、奥に倒して下さい」
谷中はゆっくり操縦捍を左にきり、奥に倒した。機体は左旋回をしながら、緩やかに高度を下げ始める。
「OKです。そのまま真っ直ぐに戻し、高度を下げ続けて下さい。こちらのレーダーでコースはしっかりと確認しているので安心してください」
「はい」
谷中が操縦桿を真っすぐにすると、機体はその姿勢を戻す。眼下には、夕焼けの色鮮やかなオレンジ色に染まった分厚い雲が広がる。そして、その雲に突入した瞬間、激しい揺れに襲われ、操縦を奪われた。谷中は両手に渾身の力を込めて、なんとか機体を安定させる。そうこうしている間に機体は完全に雲の下に入り、ものすごい雨に視界は奪われていた。
「客室にベルトサイン出します。それとワイパー入れます」
谷中には返事をする余裕もない。斉藤は天井に付けられた機器のスイッチを押す。すると、すぐにワイパーが動き出したが、あまり状況は改善されない。
「……仕方ないわね」
「こちら管制塔。現在の高度を」
谷中には答える余裕も知識も無いので、当然斉藤が答える。
「現在まもなく五千フィート」
「思っていたよりいいペースです。そしたらそのままゆっくり右にきって下さい」
谷中はゆっくり右に操縦捍を回す。
「もう少し……、そのまま!」
管制官の指示に従い操縦桿を数度右に傾けたところで固定する。斉藤は腕を震わせながら操縦捍を握る谷中を気遣う。
「谷中さん、大丈夫ですか?」
「なわけないでしょ!私は警察官でパイロットじゃないの!」
谷中は叫んですっきりしたのか、顔の強張りが抜けた。
「……やってやるわよ。あと少し!」
雨に濡れるコックピットガラスの向こうには、東京の街の明かりが滲んで見えた。
-東京国際空港 管制塔-
管制官達は一様に棒立ちで外を眺めていた。
「そろそろだ……」
双眼鏡を覗く管制官が呟く。
「……来たぞ!」
管制官の指差す先には、確かに飛行機の灯りがあった。時速二〇〇kmオーバーで進入してきているにもかかわらず、管制官たちの目には牛の歩みのようにゆっくりとして見えた。機体が進入の段階に入ったその時、風速計の傍にいた管制官が叫んだ。
「まずい!横風制限値越えました!」
「何!」
全員が窓に駆け寄り張り付く。機体はすでに着陸の体勢に入っており、横風が強いこの状況で素人に着陸複行など絶対に姿勢が安定するはずがない。かと言ってこのままタッチダウンすればどこをどう地面にぶつけても不思議ではない。まさしく進退窮まった。
彼らにはもう祈るしかなかった。
-東京湾上空 JAL524便-
コックピットでは、着陸に向けての準備が進んでいた。
「もう少し……、機首を下げて……、右に……」
谷中は斉藤の指示の下、激しく揺れる機体を微調整し、なんとか計器着陸装置の誘導ラインに乗せた。
「そうだ。谷中班の皆さんにお願いがあります」
「何?」
「客室を回って、乗客に衝撃防止姿勢……、あの、頭抱える姿勢をとらせて下さい。それと、着陸する時は機内アナウンスを入れるので、皆さんは近くのCA席に」
「わかったわ。皆、行きましょう」
四人は黙って頷き、コックピットをあとにした。斉藤はすぐに計器に向き直り、ギアレバーを下げる。
「高度五百フィート。ギアダウン」
ギアが機外に出され、空気抵抗から少し速度が落ちる。
「谷中さん……」
呼びかける斎藤に必死の形相で何かと問うと、斎藤は若干ためらいながら口を開いた。
「……runway 34 rightは一番海側です。管制塔もたぶんそのつもりだと思いますが……」
「……なるほど、海や山は鉄則だものね……」
「……すいません」
「構わないわ。大事なことよ」
二人を言い様のない空気が包む。そんな二人のもとへ、滑走路の灯りが届いた。
「見えた!」
「谷中さんそのまま!」
斉藤はいささか乱暴に無線を掴む。
「乗客の皆さん。当機はこれより羽田空港に緊急着陸します。着陸の際は強い衝撃が想定されます。客室内にいる警察官の指示に従い、衝撃防止姿勢をとってください」
斉藤が無線を置くと、谷中は大きく息を吐いて精神統一する。
「スラストレバーなんかの細かい操作は私がしますので」
谷中は黙ってうなずく。
「向かい風だけど天候は最悪……、オートブレーキマックス。フラップも……、下げるか」
斉藤は手元のつまみを回し、レバーをゆっくり引いた。機体はさらに速度を下げる。
「もう少しです!頑張ってください!」
谷中が頷きかけたその時、機体が強い衝撃に襲われた。あそれと同時に機体は一気に海側へ流される。
「突風か!」
「このまま行く!」
「はぁ?」
しかし、谷中は方向舵などという高等なものは踏まず、強引に操縦捍を左にきり、左翼を滑走路に掠めながら着陸ライン上に戻った。だが、もう姿勢はぐちゃぐちゃだ。
「しょうがない……。谷中さん少しだけ機首上げて!」
谷中はぐっと操縦捍を手前に引く。徐々に滑走路が近づき、機体に強い衝撃が走った。
「タッチダウン!操縦捍を少し押して足下のブレーキペダルを踏んでください!」
谷中は操り人形のように言われるがまま体を動かす。機首の下の前輪も接地し、ブレーキがかかり少しずつ速度が落ちる。
「リバースします!」
斉藤はスラストレバーについたもう一つのレバーを引く。するとエンジンが逆噴射を始め、やがて機体はギリギリ滑走路上で静止した。
「やったわ……」
谷中が小さく呟く。
それから一瞬の間をおいて、客室や無線越しのパイロット、管制官達から割れんばかりの歓声が響いた。
「谷中さん、ナイスランディング!」
「ふふっ、ナイスアシスト!」
二人は久しぶりの笑顔で拳を付き合わせた。