第三十四話
-A.K.S.P. 会議室-
西東京市の一件以来数日目立った動きがなく、IT班は手掛かりを求めてあのゲイグルアースを探索していた。
「目新しい情報は……。無いな」
赤橋は椅子の背もたれに寄りかかり大きく伸びをする。事件資料の入力や整理の片手間にこまめにチェックしていたが、そうそう良い情報に出会うことはない。捜査とは得てしてそういうものではあるが、改めてハッキリと行き詰まるとじれったい。
「そうですね……ん?」
班員は何か気づいた様子でマウスを動かす。
「どうした?」
赤橋が妙に気になって覗きこむと、班員のPCの画面には一件のメールが映っていた。
「被害者と名乗る人物からメールが……、犯人のモンタージュを書いてくれたそうです」
班員はカーソルをメールの添付ファイルにもっていく。スローモーションのように見える視界の中で、赤橋の心にさざめいて居ていた不安の波が、寄り集まって大きな波となり押し寄せた。
「……待て!開けるな!」
「えっ……」
赤橋の制止はギリギリ間に合わず、班員はファイルを開いてしまった。すると、ウィンドウが一つ現れ、記号を羅列し始める。やはりこれか。
「トロイ……、こんな古典的な手に……」
「すいません!」
赤橋は班員を押し退けてPCの前に座った。せめて被害を最小限にとどめるべくキーボードに手を触れたところで、赤橋はあることに気付く。A.K.S.P.のサーバーには赤橋自身がファイアウォールを仕掛けていた。それは簡易的なものではあったが、下手な市販のセキュリティーとは比べ物にならない。
あんな古典的なトロイをスルーする訳がないのだ。まずい。誰に聞かせるともなく一言零れ落ちた。
「一体、どういうことですか?」
「もうすでにファイアウォールは破られてる……。そして俺のファイアウォールを破るようなヤツだ……。こんなことしなくても目的は果たせる……。つまりこれはダミー、俺たちの目を引き付けるための陽動だ!」
慌てて立ち上がると、今度は自分のパソコンの前に座りキーボードを叩く。この典型的なトロイ騒ぎで赤橋たちの目を奪っている間に、敵は必ず何かを仕掛けようとしているはずだ。
「やっぱり……、ファイルがコピーされてる……。仕方ない」
赤橋はデスクトップPCのケーブルを引き抜いて、私用のノートPCを取り出してまたキーボードを叩き始める。
「ちょっと!何してるんですか?」
「ファイル強奪を防ぐにはこれしかない。既に少し抜かれたが全滅は防いだ。それと今はIPアドレスを調べてる……」
「そんな、自分のパソコンからしてる訳ないじゃないですか……」
「足跡を調べる」
赤橋は若干煩わしそうに短く答えた。ハッキングをする際に大概の犯人が、目標までにいくつかのサーバーを経由してくる。その各サーバーには必ずいくつかの使用履歴が必ず残り、それを足跡と呼んでいた。手慣れた人間であれば当然それを消す能力にも長けているが、場合によっては消し忘れや消し残しがあったり、追う側も赤橋のような手練れであればそれを復元することもできた。そしてそれを辿っていこうというのである。
「本当にできるんですか?」
班員は不安げに呟く。赤橋の能力は疑う余地もなかったが、相手はその赤橋のファイアウォール破った相手である。
「俺なら、できる……」
赤橋の見せた鋭い目に、班員は恐怖感にも似た言い知れぬ感覚を覚えた。赤橋がPCに向き直ると、ケーブルを抜いたデスクトップPCの方のディスプレイにファイルページが開かれ、中のファイルが次々と消えていっていた。
「面倒な置き土産を……」
赤橋は席を立ち、部屋中に叫ぶ。
「今すぐパソコンの電源切ってください!」
突然のことに室内にいた面々は互いに顔を見合わせるばかり。部屋の反対側にいた西川も怪訝な顔をしながら歩みよる。
「一体どうしたの?」
「説明は後です!早く電源切らないとパソコンが全部イカれる……」
「……皆急いでパソコンの電源落として!」
西川の声を聞いてようやく皆動き出した。それぞれがPCを急いでシャットダウンさせると、PCは大人しくコマンドを聞き入れて終了の動作に入っていく。どうやらPCを強制的に起動させ続けるような悪戯は仕掛けられていなかったようだ。そこまでのスキルがなかったとは思えない、おそらく計画から実行までに時間がなかったと考えるのが正しいだろう。
あれこれと思考を巡らせる赤橋に西川が詳細を尋ねた。
「敵の攻撃……。ハッキングに遭いました……」
思わぬ攻撃であったはずだが西川に動揺した様子はない。
「それで、被害は?」
「一部ファイルの流出と、私のパソコンが使用不能に……」
赤橋が最初に使っていたデスクトップPCは、画面が真っ暗になり物音一つたてない。
「パソコンの中のデータは?」
「ネットに繋がってないオフラインのパソコンにバックアップとってあります。それより……」
赤橋は先ほどの私用のノートPCに向き直った。
「何をするの?」
「相手のハッキングの形跡を辿ります」
赤橋はそれだけ言ってキーボードを物凄い速さで叩く。当然ながら完璧なタッチタイピングで、その目は画面に羅列されていく文字列しか見ていなかった。やがて目を輝かせてキーボードを叩いていた赤橋の手が止まった。目の色はにわかに褪せて見えた。
「どうしたの?」
「ハッキング形跡のないパソコンに行きあたったんですが……」
「元凶ね。持ち主は?」
「警視庁ハイテク犯罪対策総合センターのパソコンです……」
赤橋の声はハッキリと震えていた。
「じゃあ、赤橋さんの元部下の中に……」
「そんなはずありません!彼らの中に私のファイアウォールを突破できる者はいません!それ以前に、こんなことをする者はいない。私はそう信じています」
赤橋の剣幕に西川すら思わず怯んでしまった。だが赤橋のこの言葉は半分本当で半分嘘であった。今留守を守っている部下の中にはいない。しかしかつてには一人思い当たる人間がいた。庇うつもりはなかったが、西川に気付かれないかが気がかりだった。しかし、西川は普段の赤橋からは想像もつかない剣幕に気圧され気付いた様子はなかった。
「……わかったわ。奴らのことだから撹乱するために使った可能性もある」
「すいません……。あっ、それと、コピーされたファイルなんですが……」
「何だったの?」
「それを狙ったのかはわかりませんが、コピーされたのは我々捜査員の活動予定表です」
全国津々浦々に飛んで回るが故に、その行動予定や実績の管理は徹底されていた。コピーされて盗み出されたのか、たまたま流出したのか、いずれにせよしばらく先まで誰がどこにいるかが相手に晒されたことになる。
「なんでそんなものを……」
「さぁ……」
赤橋は肩をすくめた。奴らは一体何を考えているのか。ただ失敗しただけだと断定するのは若干性急な気がした。
そして事実この翌日、西川らはその意味を痛感することになる。