第三十話
-立川市 多摩川河川敷-
早朝の土手はランニングや犬の散歩をする人で、昼間とはまた違う賑わいを見せている。その中を黒いジャージに身を包み、海老塚はもくもくと走っていた。古巣の山口県警本部は県中央に位置し、周囲にも大きな河川がなく水とはやや縁遠い。そんな海老塚がこちらに来て出会ったのは、噂とはかけ離れたきれいな多摩川だった。
多摩市出身だという聴取三班の仲間曰く、三十年近く前から多摩川の浄化が始まったそうだ。今ではきれいな水を求めて遡上するといわれるアユや、天然のウナギまでもが見られるとか。どうやら都会の汚い川というレッテルは、海老塚が警察庁を離れて久しく地方回りをしている間に、完全に払拭されていたようだ。
元々自然の多い岐阜の山奥出身の海老塚は、この景色に完全に魅せられ、わざわざ駐屯地から片道歩けば三十分もかかる土手で走るのが日課となった。
まぶしい朝日を全身に浴びながら軽やかに走っていると、水辺に生える葦の中に黒い陰を見つけた。ここからではそれが何か全く分からないが、妙な胸騒ぎを覚えた。
「……はぁ、はぁ……。何だ、あれ?」
海老塚は切れた息を整えながら土手を駆け降り影に近づく。その陰の正体はだんだんとその姿、形をはっきりとさせてきた。
「何だ、うわぁ!」
思わず叫び声をあげてしまった海老塚の目が捉えた影の正体は、川にうつ伏せで浮かぶ男児だった。慌てて駆け寄り抱きかかえるが、既に息はなく体は冷え切り硬直が全身に及び始めていた。水温はまだ季節柄高い方ではあるが、それでも死後硬直を若干加速はさせただろう。亡くなったのは昨日の日暮れ頃か。
「朝から死体かよ……」
軽はずみな言葉とは裏腹に、海老塚の顔は刑事のものになっていた。男の子を優しく、それは現場を荒らさないためだけではなく、一つの幼い命に対する尊厳を含めて河原に寝かせた。それから携帯を取り出し西川の番号にかける。早朝であるにも関わらず、西川はわずか二回のコール音で電話に出た。
「もしもし。朝早くすみません海老塚です。いきなりですが……、事件です」
-立川市 多摩川河川敷-
それからおよそ十分弱。警視庁の機動捜査隊と自動車警ら隊が先着、その後を追うように立川署の所轄署員とA.K.S.P.から西川、機捜二班の班員がほぼ同時に臨場した。海老塚は西川を見つけると、姿勢を正し敬礼する。
「朝早く御苦労様です」
「それより……」
「はい、こちらです」
ぬかるんだ足元は粘っこい嫌な音をたてる。西川は海老塚の足跡以外に目立った足跡がないことを見逃さない。雨は昨日の日没頃にはやんでいた。犯行はそれ以前、もしくは別場所。とにかく死亡推定時刻が分からないことには難しい。
地面は川に近付くにつれて土から石に変わり、男児の変死体は当然先ほど海老塚が寝かせた場所で、変わらずに横たわっていた。男児はかなり決して短くない時間水に浸かっていたようで、ふやけて膨れ慣れない人間はまさしく見るに忍びない。
やがて鑑識作業が終わり、死体を川から引き上げ担架に移す。二人は担架のそばにしゃがみこむと、そっと手を合わせてから死体を調べ始めた。
溺死かと思われたが頭部に挫傷があり、詳しくは解剖待ちと前置いた鑑識課員の見立ては、この傷が致命傷だろうとのこと。おそらくそれが正しいだろうとは西川の見立てだ。だがこれだけでは事故か他殺かの断定はできない。
しばらく見分していたが、子供であるが故に身分を示す物を一切持ち合わせていない。唯一あるのは名前の書かれた肌着。
「……サトウ、……ユウタ君……。か」
「現場はここかしら……、それとも流されてきた……」
「とすると場合によっては東京、神奈川、さもなくば……、山梨……」
海老塚は立ち上がり上流を眺めた。
「いえ、そんなに広くないはずよ。ここから上流、すぐそこに見える都道とモノレールの橋から上は川幅も狭いわ。いいとこあの橋ね」
西川も続いて立ち上がる。上流を眺める二人に機捜二班の班員が話しかける。
「とりあえず、行方不明者リストと照合してきます」
「あぁ、頼む」
班員は自ら隊の携帯情報端末を借りて行方不明者リストと照合する。
「……あれ?間違い……、じゃないよな……」
班員は首を傾げながら、PDAを片手に海老塚のもとに戻った。
「どうだった?」
「それが……、埼玉県に届け出がありました」
「埼玉?」
思ってもみない地名に海老塚は思わず聞き返してしまった。当然多摩川は埼玉を通ってはいない。現場から埼玉の一番近いところでも直線距離で二十kmはある。子供が自力で来れる距離ではない。事件性はぐっと増した。
「はい。佐藤優太君、十才。届け出は昨日、埼玉県警上尾警察署に両親から捜索願が届け出られています。一昨日から行方がわからないそうです」
「十中八九連れ去りでしょうね。しばらく走れば事件多発地域の神奈川だし。もっとも、単純な誘拐事件中のアクシデントという可能性もあるわ。先入観は禁物、慎重に捜査しなきゃ」
「ですね。とりあえず野次馬の写真撮っときますか」
そう言って海老塚は自らの携帯を取り出し、写真を撮り始める。すると、土手の上の人だかりの向こうのモスグリーンのハイエースに目が止まった。顔を覗かせる運転手の表情は、周りの野次馬のそれとは明らかに違う。好奇の目でも不安の表情でもない。なんとも言い難い表情。
あえて言うなら――
怪しい。
海老塚は直感的にそう思いシャッターを切る。運転手はそれに気付いたのか、慌てて首を引っ込めて車を発進させてその場をあとにした。海老塚はかろうじて見えたナンバーをPDAを持つ班員に伝える。
「ナンバー照会頼む」
「はい」
班員は海老塚の言ったナンバーをPDAに打ち込む。
「……出ました。所有者新田進司五十六歳。一月前に山梨県警甲府署に盗難届けが出てます」
「だろうな……。西川さん!」
「何?」
「不審車の緊急配備願います」
「わかったわ。けどコレ、奴らの起こした事件なの?」
海老塚は一瞬言葉に詰まった。確証など当然何もなく、あるのは心証のみである。果たして西川という人物はこの意見を飲み込んでくれるか。迷った挙句そのまま言葉にすることにした。
「わかりません……。ですが、何か引っ掛かるんです」
「刑事の勘?」
西川がさも当たり前に刑事の勘などという曖昧なものを口にして、海老塚は若干面食らった。この人はそういう理屈が通用する人か。ならば話が早い。
「そんな大したものかはわかりませんが、そんなようなものです」
「嫌いじゃないわ。そういうの」
そう言って西川は本部にいる徳屋に携帯をかけながら戻って行った。海老塚は犯人の後を追うべく班員を呼び集めた。




