第二十九話
-千葉県 科学警察研究所-
千葉県柏市に拠点を置く科学警察研究所、通称科警研。警察庁直属であり、その業務は科学捜査の研究、開発から、指導、研修、都道県警察はもとより、裁判所、検察庁より嘱託された事案の鑑定をも行う。
熊田に襲撃された警視庁の科捜研は未だ復旧せず、警視庁の鑑定事案はその一部が近隣県警へと持ち込まれ、残り全てはこの科警研に持ち込まれていた。
創設以来警視庁科捜研に鑑定を依頼していたA.K.S.P.も当然にして、福井で採取した爪の鑑定を科警研に依頼することになった。
-科警研 生物第一研究室-
西川の指示で、結果を聞きに来た森ら捜査四班の面々が受付で案内されたのは、一般生体組織の個人識別を研究、鑑定する生物第一研究室のうちの一室。軽く二度ノックをしてから中に入ると、白衣を身に纏った二人の男性が待っていた。そのうちの一人、背の高い男性には見覚えがあり、森とその男性は笑顔で握手を交わす。
「お久しぶりですね。伊藤さん」
「あの事件以来ですね」
「あれからはずっとこちらに?」
「えぇ、まぁ。それより……」
伊藤は一歩下がりもう一人の男性の横に立った。男性は背の高い伊藤が隣に立っているせいもあるだろうが、平均より若干背が低く感じられ、深い皺とロマンスグレーに染まった髪から相応の年齢と貫録を感じる。
「こちらは、科学警察研究所の田沼和也研究室長です」
「初めまして、科警研の田沼です」
田沼はそう言って丁寧にお辞儀をした。
「A.K.S.P.の森です。よろしくお願いします。 それで、早速ですが結果の方を……」
森も丁寧にお辞儀を返しつつも本題を急かす。
「わかりました。ではお掛けください」
森らは田沼に促されソファーに座り、改めて部屋を見渡す。なかなかに広い部屋だが、ところ狭しと置かれた資料によって、実質的居住スペースは部屋の真ん中に置かれたソファーとテーブルの回りの一部の空間だけだった。正直大の男を七人も詰め込むと息が詰まる。
そんなよそ者五人の気など知らず、田沼はその資料の山の中から数冊のファイルを取り出し、森の前に並べた。
「まず、あの爪ですが……」
「やはり何か特別な物質でしたか?」
森はくい気味に訊ねたが、田沼はいたって落ち着いて返す。
「いやいや、それが普通のたんぱく質で構成されていたんです」
「普通のたんぱく質……、ってことは……」
「えぇ、我々の爪と同じです」
結論を述べた田沼の表情はどこか残念そうだった。これもまた研究者の性だろうか。もっともこれに関しては、初めての直接的手がかりであるが故に、森も、あとから本部で報告を聞く西川を始めたとした捜査員全員も、皆一様に肩を落とすことになるだろう。
森は一応とばかりに疑問を投げかける。
「ですが、あの爪にはかなりの威力がありました。とてもただの爪には……」
「よく研がれた猫の爪も痛いものです。よく研がれていない刀は斬れないものです」
田沼は嚙んで言い含めるようにゆっくりと説明した。
「そういうこと、……ですか」
「まぁ、逆に言えば、必要以上に恐れることはないということですよ」
そう言いながら、伊藤は淹れたてのコーヒーをそれぞれの前に置く。ありふれたインスタントの香りが辺りに満ちた。田沼はそれを一口飲んで口を潤し、少し体を前のめりにして続きを話し始めた。
「それより、恐れるべきはあの液体です」
「あの酸ですか?」
この問いに伊藤がかなり恐縮した様子で答えた。
「いえ、それが……、あの液体、酸は”主成分”ではなく”副産物”だということが科警研の研究でわかりまして……」
「それはどういうことですか?」
「そのまま、鑑定ミスということです……」
刑事の癖で思わず詰問口調になってしまっていた森に対し、完全に小さくなった伊藤を田沼がかばう。
「なぁに、伊藤君は悪くない。科捜研の器材でどうにかしようというのが無理な話だったんです。死の間際から生還されたあなた方に言うのは失礼でしょうが、まさに怪我の功名というやつです」
「はぁ……。それで、真の主成分とは一体何なんですか?」
「それは……」
田沼はぱらぱらと別のファイルのページを数枚めくる。
「この”バクテリア”です」
「バクテリア?」
「そうです。ただここから先は私では専門外なので……」
田沼がそう言いよどむが先か、部屋のドアが優しくノックされた。どうぞと促す田沼の声に続き、部屋の外から失礼しますと女性の声が聞こえドアが開いた。そこに立っていたのはセミロングの黒髪を若干無造作に結わいた、薄化粧で小柄の可愛らしい女性。これが噂のリケジョかと思いつつ、にやける班員の頭を遠慮なく叩く。
田沼に手招かれて、女性は狭い部屋の中心へと慎重に歩を進める。
「今日の主役の倉夏子さん」
「科学警察研究所生物第五研究室にて主任研究官をしております倉夏子と申します」
倉はそう言うとまさしくぺこりと音がしそうな可愛らしいお辞儀をした。
「本当は彼女の研究室で話ができればよかったんですけどね、このバクテリアのおかげで大忙しらしくて……。さ、まあ座って」
田沼がそうは進めるものの、この雑多な部屋に八人目。さすがに無理が出てきた。森は黙って先ほど引っ叩いた班員を立たせてスペースを作る。空いたスペースに何とか入った倉は、早速ですがと言うと先程までとは打って変わり、スイッチが入ったように真剣な顔つきになった。隣の田沼と小声で二三話の進行状況を確認し合い、自ら持参したファイルを開いて話し始めた。
「簡潔にご説明しますと、このバクテリアは衣服等の無機物を食して生きております。その時、あの酸が発生します」
「では、あの酸自体に殺傷能力は……」
「強いて例えて言うとするならば、酢酸といったところでしょうか」
「なるほど、酢酸くらいですか……。酢酸?」
森は一瞬スルーしかけたが、自分で声に出しておかしさに気付いた。酢酸と言えばあれである。
「いわゆるお酢ですな」
田沼が答える。自分の脳裏に浮かんだ回答が正答とわかっても、森は混乱が収まらなかった。
「お恥ずかしい限りです……」
伊藤からは相変わらず暗いオーラが漏れ続けていた。森は自らの混乱を一度片隅に追いやり、かつての戦友ともいえる伊藤のフォローに回った。
「あまり気になさらないでください。ほら、歴史的発見をしたことには変わりないですから。ね?そうですよね倉さん?」
「はい、それには間違いございません。確かにあの酸は今まで知られていなかった新種です。それより、話を元に戻しても……」
どうやらこの女史は人の心を察するのが疎いようだ。その分の才能はきっと研究に回されたのであろう。森は改めて倉に向き直り続きを促した。
「あのバクテリアは無機物を破壊し人体、人膚に到達しますと、目や鼻、口、あるいは傷口等から体内に侵入します」
それはおかしい。森は思わず話の腰を折った。
「ちょっ、ちょっと待ってください!今の説明だと、肌についたくらいじゃ感染しないことに……」
「その通りです」
倉はまた新たなファイルを開いた。
「発症したどの被害者の方にも、共通して鋭利な刃物、恐らくはあの爪による刺創、すなわち刺された跡が残っておりました」
「なるほど……。いや、でも、科捜研で襲われた狙撃手は、熊田と接触してないですよ?」
直接現場は見ていないが、その場に居合わせた床野の報告によれば当該建物屋上に熊田はおらず、近隣の建物より狙われたのであろうとのことだった。
「はい、なので御遺体を徹底的に調べさせていただきました。すると、腹部に僅かな切り傷があったのを確認できました」
「では、不幸な偶然だった……。ということですか?」
「狙った訳ではない……。と信じたいですね……」
部屋を静寂が包み込む。重たい空気を破り、倉が続けた。
「このバクテリアはそうして体内に入ると、血中に侵入し血流に乗り脳を目指します。ここで人体は、脳への大量の異物の混入を感知し、意識障害を引き起こすします。バクテリアはその間にも侵攻し、まず大脳の大脳皮質を破壊。知的、理性的行動を奪います。次に小脳に入り込み、知的能力を破壊し、その空いたキャパシティの全てを運動能力に向けます。最後に、脳下垂体というところに達すると、食欲と性欲を活性化させ、その他の本能的欲求をなくします。さらに、成長ホルモンの分泌を活発化させ……」
「見事熊田の出来上がり……」
「はい。それと、何故男性だけが発症し、男性のみを襲うのかですが……」
「それもわかったんですか?」
「はい。原理自体は簡単でした。女性ホルモンであるエストロゲンが、このバクテリアの活動を著しく低下させます。なので女性ホルモンの少ない男性にのみ症状が現れ、己の繁栄のために男性を襲わせます」
森は力ないため息をついて椅子にもたれた。
細かい理屈はともかく流れはいたって単純だった。事件の謎とはいつもいざ解いてみると案外あっけないものだが、今回は特にあっけない。要は脳がバクテリアに乗っ取られたのだ。森は以前テレビか何かで見た、カタツムリに寄生してカタツムリを鳥に捕食させて繁殖する寄生虫の話を思い出した。もしかしたらこういった現象自体は珍しくないのかもしれない。
「加えて言えば、そこまで脳を破壊しているので、host、宿主はかなり短命になります。実験したラットのうち、九割が一週間以内に死亡。長くても二週間生きられませんでした。人間に換算しても、数週間から一ヶ月程度かと思われます。現在わかっているのは以上です」
「ありがとうございます。引き続きよろしくお願いします」
森らは深く頭を下げ、いくつか資料を受け取り部屋をあとにした。
熊田についてまた一つ謎が解けた。しかしそれは、また一つ新たな謎を生み出した。
”奴はどうやってそんな微生物と共存しているのか――”