第十六話
-警察庁 長官室-
不必要に豪華絢爛な内装は普段西川の嫌味の的なのだが、この日は違っていた。長官を前にして口を真一文字に結び直立している。
「全く、どうしてくれるんだね西川君!」
声を荒げる長官に対し、西川は沈黙で答える。
「A.K.S.P.軽傷者五名、重傷者十一名。神奈川県警察軽傷者八名、重傷者九名、死者三名!愛知の一件以来の被害規模だ!」
だんだんと口調をエスカレートしていく長官を前にし、西川は相変わらず黙ったまま何も言い返さない。
「しかも君達……、いや、君は!科捜研襲撃に始まり、法務大臣の息子と外務大臣の孫の射殺、そして今回の襲撃と失態続きじゃないか!」
西川はうつむき手を強く握り締めた。手のひらに鋭くも綺麗な爪が刺さり、うっすらと血が滲む。恥などという低俗な感情でなく、悔しさなどという幼稚な感情でもない。禍々しくも黒い感情が西川を支配する。
「せっかく君を抜擢してやったというのに……。私の顔に泥を塗りおって!」
誰も立候補せず自ら挙手しただけで、貴様に抜擢された覚えは無いという心の声は辛うじて口から出なかった。それにしても、この場においても口を突いて出るのは己の保身かと思うと、呆れに満ちた嘲笑がこぼれそうになるがこれも噛み殺す。
そんな西川の心の中を知る由もなく、今までの恨みを晴らすかの如く、長官はここぞとばかりに責め立ける。
「……君には、指揮官を退いてもらう。後任には野澤君を推薦しておいた。詳しい処分は後日伝える。以上だ。今日は帰れ」
西川は終始無言のまま最後に深く頭を下げ、部屋を後にする。部屋の前では運転手役の捜査員が部屋を背にして待っていた。長官の声量から考えれば話は筒抜けだろうが、何も聞いていないという彼なりのアピールだろう。しかし今はそれも少し鼻につく。
そんな彼にフラフラっとよろける様に近づき、後ろから抱きつき首に腕をからめると耳元に甘く切ない声で囁く。
「ちょっと……、いい?」
嬉しいハプニングに彼は顔を真っ赤にした。
西川はそんな彼の肩を抱き寄せる。いや、ホールドする。
「……えっ?」
「ごめんなさいね……」
急展開に戸惑いを隠せず、素っ頓狂な声を僅かばかりにあげた彼を無視し、西川は真横に回り込んだ。細く関節の浮き出た拳を大きく振りかぶってから、勢い良くみぞおちにめり込ませた。
「ッ!……ゲホッ、ガハッ……」
寸分違わず横隔膜に打撃を加えられた彼は、息も絶え絶えになりながら腹を抱えて音もなく崩れ落ちた。
「ったく、んなことね……、言われなくてもわかってんのよ。あのジジィ……、ろくに脳ミソも髪も無いくせに、デカイ口きいてんじゃないわよ。これで懲戒にでもしてみなさい……、その僅かな希望、全部引き抜いてやる……」
恐らくこの声もまた筒抜けだろうが、そんなことには一切構わず、むしろ中に聞こえるように言いたいこと、やりたいことを全て出しきって、悶え苦しむ運転手を置き去りにしてその場を後にした。
-A.K.S.P. 指揮官室-
業腹ではあるがトップの機嫌を損ねてしまった以上やむを得ず、西川が来るべき日に備えて机の上を整理していると、赤橋が控えめのノックをしてこそこそしながら入ってくる。
「何?どうかしたの?……あっ、彼氏なら間に合ってるわよ?」
柄にもない冗談が口をついて出るあたりに、だいぶ投げやりになっていることに自分で気付く。そんな自嘲に満ちた笑いが赤橋には、言葉と合わさり自分に向けられたように見えてあからさまに怒った。
「そんな下らないこと言ってる場合じゃないですよ!……西川さん、Sです……」
「はぁ?何のカミングアウトよ。下らないのはどっち?なんでこんな所で性的趣向を披露されなきゃ……」
「違います!……警察用語の方です……」
それを聞いて茶化していた西川の顔は急に引き締まった。刑事の顔に戻ったのだ。
「それ、一応どっちのSか聞いてもいい?」
警察内部の隠語には大きく分けて二つのSがある。一つは特殊部隊を意味するS。そしてもう一つは――
「お察しの通りスパイのSです。しかも公安や察庁の送り込んでくる”庁内S”とは違う……。単純かつ悪質な漏洩者の方です……」
「冗談でしょ……」
西川はよろめき机に寄りかかる。赤橋も疲れたような悔しそうな顔でため息を一つついた。
「……自分も、さすがに一連のことに疑問を持ったんです。やることなすこと全て筒抜けで……。それで調べていたら、ここのサーバーに正体不明のアクセス履歴があったんです。ですが、セキュリティのファイアウォールにはハッキングの形跡がない……」
「なるほど。つまり、パスワードを知って然るべき人間の誰かが、勝手に情報を閲覧し、情報を流した……。そういうこと?」
赤橋は黙って頷いた。
「なら……、私に一人だけ心当たりのある人間がいる……」
「……一体、誰なんですか?」
「申し訳ないけどそれは秘密。貴方がうっかりと話すことはないと思うけど……、やっぱり確証のないことを迂闊に話せないわ。それに……」
西川は何かを言いかけて一瞬逡巡し、結局続きの言葉を飲み込んだ。
「とりあえず確かめに行ってくる。何かわかったらまた連絡して」
西川は薄手のブラウスの上に、いつものグレーのスーツではなく、A.K.S.P.の黒いジャンパーを羽織って部屋を出ていった。
その背中に言い知れぬ不安を抱いたが、結局赤橋は何も言えなかった。