第十話
-東京都 世田谷区-
科捜研襲撃の数刻前。閑静な住宅街を一人の男性が歩いていた。
彼の名前は河浦龍一、二十六歳。都内の大手IT企業に勤めている。
この日、彼は結婚を目前に控えた彼女と結婚式の打ち合わせ、という名のデートのために、午前中で会社を早引きしてきた。こんな我儘な早引きが許されるのは、彼の仕事の速さと信頼に値する人柄。それに加えて特殊な身内がいることがなせる業である。
鼻歌混じりに自宅の鍵を開け、軽い足取りで中に入り扉を閉めようとすると、毛にまみれた手がそれを阻んだ。彼はパニックに陥りながらも強引にノブを引き寄せたが、無情にもドアを抉じ開けられ、その向こうから獣が姿を現す。
どこかで見たその顔に脳がフル回転する。やがて脳が記憶の底から見つけ出したのは、日本中で児童を襲っている凶悪犯という最悪の情報だった。
「よ、よせ!……くるな!」
「嫌だね」
熊田は下卑た笑みを浮かべて家の中に踏み込んできた。
河浦は抜けかけた腰をなんとか立たせ、奥のリビングへと走る。迫る熊田に花瓶やクッション、椅子までありとあらゆる物を投げ付けてみたが、熊田はその鋭い爪で全て切り裂き傷一つ与えられない。
河浦は徐々に冷静さを取り戻し、熊田と一定の距離を保ちながら携帯を取り出す。すると、ちょうど誰かから電話がきた。
「もしもし!もしもし!」
半ば怒鳴りつける様に電話に出ると、相手は彼女だった。
「あっ、もしもし龍一さん?どうしたのそんなに焦って」
「助けてくれ!変な男、……いや、変なクマに襲われてる!」
「え?何?どういうことよ?」
その鬼気迫る声に異常さを感じたものの、電話の相手は要領を得ていない様子だった。
「だから……!」
電話に気をとられた一瞬の隙に、熊田は目の前に迫っていた。
河浦が思わず持っていた携帯を床に落とすと、それを熊田が踏み潰す。
「電話の相手は誰だ?」
「彼女に手を出したらタダじゃおかない!」
本気だったが今この場では虚勢にしかなりえない。
「女か?安心しろ。女に興味はない。興味があるのは……、男だけだ!」
「お前、もしかして……!よ、よせ……、アァーッ!」
熊田は河浦のジーンズを引き裂き、己の欲望をぶつけた。
事が終わった頃、今度は熊田の携帯が鳴った。
「もしもし……あぁ……あれが警察に押収……襲った……報酬……じゃあ」
熊田は携帯を切ると、河浦に向き直った。
「聞こえたか?」
河浦は黙ったまま首を横に振る。
「まぁ、何て答えても黙らせるんだがな……」
熊田は中指の爪を河浦の腹に突き立てた。
「うぐっ……」
腹の芯まで届く鋭い痛みに否応なく表情が歪む。
熊田は爪を抜いて手首から白濁の液を滲み出させ、腹の傷に染み込ませる。そして、満足げにその場を去った。
それから数分の後、薄れゆく意識の中、駆け付けた警察官と救急隊員が視界の端に映ったところで、河浦は意識を完全に手放した。
-同区内 病院-
河浦の運び込まれた病院のロータリーに、マグネット式赤色灯を回転させた黒塗りのアルファードが一台、けたたましくサイレンを鳴らしながら滑り込んだ。綺麗なセミロングの黒髪をなびかせて降り立ったのは、元京都府警SIT管理官の矢口優美警視率いるA.K.S.P.聴取二班。玄関前で待ち受けていた所轄署員に病室の場所を聞く。
「運び込まれた病室は三階の一番奥の個室、三一〇号室です。手前のエレベーターからが近いです。どうぞこちらへ」
五人の前を歩く若い男性署員の足取りは軽く、それこそ今にもスキップしそうなほど。それを矢口はまだまだ青いと心の中で笑った。
地域の老人を中心とした大勢の患者で混雑するロビーを抜け、車椅子等の利用を前提としているのであろう広い作りをしたエレベーターに六人で乗り込む。彼が三階のボタンを押し扉が閉まった。二階分の移動のためすぐに着いて扉が開く。
エレベーターを降りて奥の病室に近づくにつれ、刑事の勘か、はたまた女の勘か、近づいてはならないと警鐘を鳴らす。やがて病室が見えるところまで近づき、その違和感の正体がはっきりした。
「ねぇ……、今日は立ち番の警察官はいないの?」
「機動隊の方はまだ到着していないので、うちの署員だけが立ち番しているはずですが……、でもいないですね……」
「勝手に持ち場を離れたか……」
「そんなことは絶対にないです!今日立ち番していたのは、うちの署で屈指の優秀な先輩方です!」
男性署員は先ほどまでの浮ついた表情から一変、矢口に強く反発する。浮ついているように見えても、やはりしっかりとした仲間思いの警察官であり、その仲間は思われるだけの人物なのだろう。
だとすれば――
「何らかの事件に巻き込まれた……」
閉じられた病室の扉の前に、六人が張り付く。扉の向こうからは物音一つ聞こえないが、病院の消毒された独特な匂いとは別に鼻をつく異臭がする。それは全員に嗅ぎ覚えがあった。
「血の臭い……」
矢口は腰のP228を抜き、スライドを引いて薬室に弾を込めた。班員に目で合図を送る。
一人がノブに手をかけ、ドアを勢いよく開けた。間髪を入れずに病室に雪崩れ込む。
「うっ……」
突入するや息を詰まらせた一行の目に飛び込んできたのは、体を食い荒らされた所轄暑の制服警察官の死体だった。込みあがってくる吐き気を必死に抑え込む。
「被害者は?」
部屋を見渡すと、仕切りのカーテンの向こうに揺れる影が見える。
その影はゆっくりと移動し、六人の前にその姿を現した。
「なっ、なんなのよ……」
ゆっくりと姿を現した河浦は、まるで熊田のような出で立ちでこちらを睨んでいる。ただ一つ、熊田と違って人間らしさを残す顔が、彼が被害者なのだと訴えていた。
河浦は勢いをつけて男性署員に飛びかかる。彼は倒された衝撃で手に持つS&Wエアウェイトを落としてしまった。拳銃が白いリノリウムの床を滑っていく。
矢口は襲いかかる河浦を必死に引き離そうとするが、男性の警察官ですら敵わなかった相手に、女性が太刀打ち出来るはずもない。
河浦はいよいよ毛にまみれ始めた手で、周りの班員達を一気に凪ぎ払う。耳から外れかけた無線と繋がるイヤホンの向こうで何かが叫ばれていたが、彼女達の耳には入らなかった。
「くっ……、この人被害者じゃないの?」
「間違いなく被害者です!被害者ですけど……」
必死の抵抗も虚しく、遂にズボンが引き裂かれる。
河浦は、最後まで抵抗し続けた矢口を壁に叩きつけた。頭を強く打ち意識が朦朧とする。河浦は表情を変えず、男性警官に馬乗りになった。
その時、一発の銃声がして、河浦の頭が弾け飛んだ。
霞みゆく視界でなんとか銃声がした方を見つめる。そこにいたのは、元山口県警公安課長で機動捜査二班班長の海老塚雅人警視と班員達だった。海老塚は構えていた拳銃をホルスターに戻してから、ゆっくり近づいてくる。
「大丈夫か?」
優しく手を伸ばす海老塚を矢口は睨み付けた。
「……何で撃ったの?」
「え……」
「何で撃ったのって聞いてるのよ!」
もの凄い剣幕の矢口に海老塚は一瞬たじろいだ。しかしこちらにも言い分はある。
「そういう命令が下っていたからだ。熊田に似て、凶暴かつ男性を襲う者がいた場合、迷わず撃つようにと……」
「でも……、彼は被害者なのよ!」
「放っておいたら!……放っておいたら、お前たちが……、死んでいたかもしれない……」
互いに正論をぶつけ合う口論は、強く心を締め付けた。
やがて言葉を無くした海老塚は、部下に処理を任せてその場を立ち去った。廊下の角を曲がりエレベーターホールに着くと、側に置かれていた金属製のゴミ箱を蹴り飛ばした。静かな院内に響いた銃声に続く、剣呑な金属音に、近くにいた人達が皆何事かと振り返る。
彼もまた、苦しんでいたのだ。誰かを守るために、誰かを犠牲にする。
それは、到底耐え難い苦痛だった。