忘れもの
その駅は、昼間でさえ人通りが少ない。
夜ともなれば、改札を通る人影はほとんど途絶える。終電まであと二時間。地方都市の外れにある無人駅のホームには、蛍光灯の白い明かりがぽつりぽつりと灯っているだけだった。
ベンチに腰を下ろしたのは、仕事帰りの青年・佐伯翔太だった。二十代後半、営業職。今日も得意先に頭を下げてばかりで、気力も尽き果てている。ネクタイをゆるめ、ため息をひとつ。
「……帰りたくねぇな」
アパートの部屋に待つのは、暗闇と冷えた弁当箱だけ。そんな現実を思うと、駅の風に当たりながら座っている方がまだ気が楽だった。
ふと隣を見ると、ベンチの端に茶色い紙袋が置かれていた。誰かの忘れ物だろうか。サイズは小さいが、意外に重そうだ。
「ん?……中身は、何だ?」
興味本位で手を伸ばしかけたところで、背後から声がした。
「触らない方がいいですよ」
振り返ると、制服姿の女子高生が立っていた。大きなカバンを抱え、こちらをじっと見つめている。
「わ、びっくりした……。忘れ物かなって」
「さっきから気になってて。私も降りたときからあったんです」
彼女はそう言って、紙袋をのぞき込む。翔太はしばし迷ったが、二人で封を開けることにした。
中に入っていたのは、手編みのマフラーだった。深い紺色で、毛糸の温かみが伝わってくる。
「誰かへの贈り物かな……」
「手作りだ。……きっと大事なものですよ」
女子高生の瞳に、一瞬切なげな光が宿る。翔太は、その視線の奥に何か事情があるのだろうと感じた。
やがて電車が到着し、彼女はカバンを抱え直した。
「このマフラー、駅員さんに届けておきますね。無人駅だけど、明日の朝には管理の人が来るし」
「……そうだな。その方がいい」
二人は軽く会釈を交わして別れた。翔太は彼女の背中を見送りながら、不思議な温もりが胸に残るのを感じた。
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数日後。
翔太は再び同じ駅でベンチに座っていた。例の紙袋のことが気になっていたが、どうなったのか分からないままだった。
そこへ、小さな男の子と母親が現れた。母親は辺りを見回し、困ったように声を漏らす。
「この前の……マフラー、届いてるって聞いたんですけど」
翔太は思わず立ち上がった。母子は駅務室へ向かう。普段は閉まっているが、今日は管理人が来ていたらしい。数分後、母子は嬉しそうにマフラーを抱えて戻ってきた。
「よかったね、拓人。おばあちゃんの編んでくれたやつ、戻ってきたよ」
「うん!」
少年はぎゅっとマフラーを胸に抱きしめる。
その瞬間、翔太は目頭が熱くなるのを感じた。あの時、自分が勝手に持ち去らず、届ける選択をしてよかった――。見知らぬ親子の笑顔に、そう思わずにはいられなかった。
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ホームを吹き抜ける風はまだ冷たい。だが、ベンチに腰を下ろす翔太の心は、不思議と温かかった。
孤独に過ごす毎日も、こんな風に誰かの役に立てることがあるのかもしれない。
忘れ物のマフラーは、結局彼を救ったのだ。
そして彼は、そっと決めた。
――明日は、久しぶりに実家へ帰ろう。母に電話をして、元気だって声を聞かせよう。
小さな駅のベンチで起きた出来事は、確かに翔太の人生の方向を少しだけ変えていた。
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連載作品は0時更新。シリーズ『連載中』より、ご一読ください。
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