謎の女性
後宮に上がり、お姉様は変わり果てたわたくしの姿を見て、とても驚かれました。
けれど、驚いたのはわたくしも同じです。
お姉様の顔色はあまりに悪く、思っていたよりもずっと弱っておりました。
「お姉様、陛下に頼んで一度邸へ戻りましょう。ここにいてもきっとよくはなりません」
「いいえ、わたくしはここにおります。フィアナこそ邸に戻りなさい。わたくしを心配して来てくれたことは嬉しいけれど、貴女は伯爵令嬢なのです。そんな姿のまま、ここにいていいわけがないわ」
「嫌です。お姉様はわたくしに何か隠しておられませんか? もしや、陛下に酷いことをされているのでは?」
お姉様は青い顔で、何度も左右に首を振ります。
「陛下はわたくしにとてもよくしてくださいます。フィアナ、わたくしは本当に大丈夫。薬師長が処方してくださった薬を飲んでいれば、直によくなるから。両親もお兄様もきっと貴女を心配しています。お願いだから、すぐに邸へ戻って」
お姉様はそう言い、力なくわたくしの頬に手を添えました。
「戻りません」
大好きなお姉様の頼みでも、それだけは絶対に聞くことはできません。
「少しの間だけで構いませんから、お姉様のお傍にいさせてほしいのです」
わたくしはそう言って、お姉様の手を強く握ります。
「本当に……本当に、少しの間だけよ」
お姉様は諦めたように笑い、わたくしを優しく抱きしめてくれました。
早速、わたくしは翌日から調査を始めることにしました。
お姉様がこのようになった原因が、なにかこの後宮にあるはずです。
後宮の敷地はとても広く、共用の場所も多くあります。
幸いなことに、今のところ身分の高い方には遭遇しておりません。
入りたての侍女だと言い、料理人、給仕、庭師、下女などに話を聞いて回ります。同じ後宮内で働く人間になら口は軽くなるものです。
ましてや、新参の側妃の侍女に何か言ったところで、影響力があるはずもありません。
皇帝陛下は、マチルダから聞いていた通り、温厚篤実からは程遠い人物のようです。
気分次第で突然怒鳴りつけ、辞めさせられた使用人が何人もいるのだとみな恐れていました。
正妃とお姉様以外の側妃は陛下のご機嫌取りに勤しみ、部屋からあまり出ないご様子。
そして、そういった話の流れから更に気になることを耳にしました。
お姉様が後宮に入る以前は、二人目の側妃であるコーリアナ様の体調が悪く、お姉様ほどではないにしても、やはり床に臥せる日々が続いていたらしいのです。
同じく、一人目の側妃のカトレア様も体調を崩していた時期があったとのこと。
「全く、陛下は体の弱い側妃ばかり選ばれる」
庭師のサラボナさんが言いました。
サラボナさんは貫禄ある女性で、後宮に長く勤めるベテランの庭師です。
「そうでしょうか。みなさま、後宮に入られる前はご健勝だったのでは?」
「まぁ、来たばかりの頃は、確かにみな顔色は良かったね」
「では、こうも揃って、おかしくないですか?」
「それは、まぁねぇ」
「……もしかして、食事に何か混入されているとか?」
「滅多なことを言うもんじゃないよ。けれどここだけの話、昔そう疑って食事を徹底的に調べたこともあったね」
「それで?」
「何も問題はなかった。給仕の者も疑い、食べる直前に毎回毒味もさせた。全く問題はなかったよ」
「そうでしたか」
「ここは特別な場所だから、疑いたくなるのも分かるけどね。でも、まぁ考えすぎだよ」
サラボナさんは笑いました。
「……そうですよね。いろいろなお話が聞けてよかったです」
「いや、別にいいよ。あんたがアイラ妃殿下の侍女だと聞いたからね。何度かお会いしたけど、アイラ妃殿下は優しい人だね。アタシはすっかり彼女のファンさ。そうそう、リリの花が好きだと聞いたから、庭の一角に植えてみたんだよ。早く元気になるといいねえ」
サラボナさんの言葉に、わたくしは一礼しました。
それから、わたくしは迷ったふりをしながら、正妃であるイブ様がいらっしゃる棟へと向かいました。
式典などにも参加されるイブ様のお顔は当然知っておりますが、実際どのような方なのか人となりまでは分かりません。
正直、訝しんでおります。
お姉様だけではなく、イブ様以外のこれまで後宮に入った妃が次々と体調を崩していたのです。
「どこへ行くのですか?」
長い廊下の隅を曲がった時、急に後ろから声をかけられました。
振り向くと、長身の女性が立っております。
「……その、迷いまして」
わたくしは答えました。
「そうですか。もう少し進めばイブ正妃直属の宦官が、先に立ち入らせないよう見張っております。引き返すのがよろしいかと。それとも、貴女はイブ正妃の侍女ですか?」
「いいえ、違います。わたくしはアイラ様の侍女です」
そこは嘘を言う必要もありません。
「なるほど。アイラ妃がおられる棟からここまでは随分と離れていますが、貴女は一体どこへ?」
「それは、その……医療室です。薬師にお会いしたくて」
強ち嘘ではありません。
イブ様の人となりを探れても探れなくても、次は薬師にお姉様の病状について、詳しく話を聞こうと思っていたのです。
「医療室は逆方向ですよ」
「そうなのですか」
「もしや、アイラ妃のご病気のことですか」
「はい」
「後宮の薬師はイブ正妃が選出しています。妃を診ている薬師長は、彼女が管理する敷地内にいますから、おいそれとは会えませんよ」
「つまり、後宮の薬師長はイブ様のお抱えで、側妃も診ているということですか?」
「ええ、そうです」
それは知りませんでした。
薬師長はてっきり皇宮の方から推挙され、送り込まれているとばかり思っていました。
そんな薬師長は信用できるのでしょうか。
イブ様がとても嫉妬深い方で、側妃の存在をよく思っていなかったのだとしたら、具合の悪い側妃の治療をまともにしないことだってあり得ます。
治療をせず、治療している振りをして。
いえ、それよりもっと最悪な事態も考えられます。治療と偽り、逆に側妃たちの具合を悪くさせることだってできるのではないでしょうか。
嫌な汗が背を伝います。
「あはは。貴女はずいぶんと聡い侍女のようですね」
ハスキーな笑い声に驚き、改めてその女性を見ると、彼女はとても侍女や使用人には見えません。長身ながらも理想的な体型をした、それは美しい女性でした。
彼女は側妃であるカトレア様かコーリアナ様なのではないでしょうか。
もしくは、陛下の新たな側妃候補かもしれません。
「失礼かと思いますが、あなた様は?」
わたくしは彼女に尋ねました。
「私の協力者になってくれるというならお話します。先に私の質問に答えてください」
わたくしは頷きました。
「貴女はアイラ妃のために、イブ正妃を疑い、探りに来たのですね?」
この女性が敵なのか味方なのかは分かりません。
けれど、彼女は真っ直ぐで澄んだ瞳をしております。
わたくしは迷うことなく、再び無言で頷きました。
「場所を移しましょう。私に付いてきてください」
彼女はそう言うと、長い廊下を延々と移動し始めました。
宮殿の端、普段使用人すら入らぬような場所です。
一体、どこまで行くのでしょう。
やがて一つの部屋に入り、棚を動かします。
棚の裏に抜け穴らしきものがあり、暗い通路が見えました。
「怖いのなら手を繋ぎましょう」
彼女はそう言って、笑顔で手を差し出します。
わたくしは思わずその手を取りました。
薄暗い通路の中は異常なまでに複雑で、階段を上ったり下がったり、また扉が塞いであったりもしました。
先程会ったばかりの、何者かも分からない謎の女性。
それでも、なぜか彼女を信頼している自分がおります。
そのひんやりとした大きな手は、不思議と安堵感を与えてくれました。
そうして随分と移動し、ようやくどこかの小部屋に辿り着きました。