風の魔法、木漏れ日の庭で
昼下がり、港町セントベルの小さなパン工房に、風が優しく吹き抜けた。
マヒナは焼き終えたパンの熱を冷ましながら、おばあちゃんにぽつりと話しかけた。
「ねえ、おばあちゃん。わたし、ちょっと……魔法の練習をしてみたいんだけど」
「ふふ、いいよ。裏庭なら誰の迷惑にもならないし、思いっきり練習してらっしゃい」
そうしてマヒナは、自作の小さなパンかごに今朝のハーブパンを詰め、「魔法詠唱の入門書」を手に、裏庭へと向かった。
セントベルの午後は穏やかで、工房の裏には風に揺れる小さな木と、陽だまりの芝が広がっている。
「えっと……風魔法の、無詠唱……」
マヒナは手を軽く振ってみた。
ふわり。落ち葉が、くるくると舞い上がって一か所に集まる。
「……できた。やっぱり、風は得意かも」
頬を撫でるそよ風に、小さく笑みがこぼれた。
魔導書を膝に置き、ページをめくる。
「じゃあ次は……詠唱付きで」
マヒナは息を吸い、手をかざす。
「荒ぶる風の子よ、我が前を駆けぬけたまえ
すべてを吹き払う乱舞となれ――『ウインドインパクト』」
ぼふっと風が生まれ、前髪がわしゃっと顔にかかる。
「わっ……っつ!」
スカートがめくれそうになり、あわてて押さえた。
少し頬を赤く染めながらも、マヒナはにこっと笑って、魔導書の次のページへ。
「次は……火の魔法…」
手を胸元に添え、呪文を唱える
「炎の子よ、静かなる息吹を纏いて舞い上がれ。暖かな光とともに闇を払え――『フレイムウィスプ』」
すると、指先に小さな火が三つ灯った。
それはまるでマッチのように、ゆらゆらと空中に浮かび、じんわりとした温かさだけを残す。
そして、次。
ページの端に書かれていたのは、《中級・風魔法:ウィンドスラッシュ》。
「うぃんど……スラッシュ?」
不安げに呟きながら、マヒナは片手を前に突き出した。
「蒼穹を裂く疾風よ、翼となりて我が意志のままに翔けよ、死線を駆け抜け旋風を呼び覚ませ――ウィンドスラッシュ!」
風が唸り、鋭い音を立てて木の枝を斬り裂く。
ごうっ、と風の刃が走ったかと思えば、目の前の柘榴の枝がばっさりと吹き飛んだ。
「わっ!? ちょ、ちょっと強すぎた……?」
慌てて魔導書を確認すると、小さな字でこう書かれていた。
《※使用は開けた場所で行いましょう》
マヒナはしばらく絶句してから、思わずため息をついた。
「先に言ってよぉ……」
そのとき、工房のほうからおばあちゃんの声がした。
「マヒナー? なんだか大きな音がしたけど、大丈夫かい?」
マヒナは慌てて飛ばされた枝を抱え、庭の隅に隠しながら叫んだ。
「うん! ちょっと風が強くてー!」
「そうかい、気を付けるんだよ」
マヒナはようやくひと息つき、草の上に座り込んだ。
木を見るとさっきの「ウィンドスラッシュ」で出来た切れ目が、まだ生々しく枝に残っている。
それでも、心の奥には不思議なワクワクがあった。
「でも……あんな風を、自分の魔法で起こせたんだ」
彼女は、開きっぱなしの魔導書をそっと撫でる。
ページの隅に、薄く陽光が差し込んでいた。
パンとかすかにザクロの匂いが混ざる裏庭で、マヒナは小さく笑った。