潮風パンとリュクの訪問
パン生地を発酵させているあいだ、マヒナは裏庭の洗濯物を取り込んでいた。夏のようにまぶしい日差し、白い布が風に泳いで、涼やかな影を落とす。
と、玄関の方から「コン、コン」と控えめなノックの音が響いた。
「……はい?」
手を拭きながら扉を開けると、そこには――
「よ。来たぜ、パン屋の娘」
潮風とともに現れたのは、あの少年。日焼けした肌、無造作な黒髪。腰には細身の剣。
――リュクだった。
「……えっ。えっ!? ど、どうして、ここが……?」
マヒナは目を丸くした。確かに、彼にパン屋の場所は話していなかったはず。
「昨日森から帰る途中で、いい匂いが流れてきたからさ。あの時のパンの匂いと、薪の匂いと……あとは勘」
「勘って……」
あきれ半分、感心半分でマヒナは笑ってしまった。
「んで、今日はちょっとしたお礼。持ってきたんだ、これ」
布袋の中から出てきたのは、こんがりと焼かれた魚。身はふっくら、皮には艶があり、炭火の香ばしい匂いが辺りに広がる。
「焼きたてのうちに食べた方がうまいけど、まあ……パンと合わせてみるのもいいだろ?」
*
「魚のパン、だって? おもしろいこと言う子だねぇ」
工房の奥から現れたおばあちゃんは、にっこりと目を細めた。
――というわけで、三人で「魚パン」づくりが始まった。
焼き魚は骨をすべて外し、身をほぐしてハーブと混ぜる。タイム、ローズマリー、ちょっとだけミント。パン生地には少し塩気を効かせて、具を包んで焼き上げる。
「おばあちゃん、この香草の量でいいかな?」
「うん、リュク君、さっきの魚に混ぜてごらん。油が落ち着くよ」
「……なんか、不思議だな。パンって、こうやって作るんだな」
手つきはまだぎこちないけれど、リュクの目はまっすぐだ。マヒナは笑いながら生地を渡す。
「成形は好きにしていいよ。丸でも三日月でも、剣の形でも!」
「……剣? じゃあそれで」
*
窯の扉を開けた瞬間、ふわっと潮と香草の混じった芳しい香りが広がった。
きつね色のパン生地の中から、熱を帯びた魚とハーブが湯気を立てる。
「できた……! うわぁ、すっごくいい匂い!」
「ほら、早く食べようぜ」
縁側に腰かけて、二人はあつあつの“魚パン”をかじった。
「……うん!」
マヒナの頬がふわっとゆるんだ。
「塩加減がちょうどいい……ハーブが効いてて、魚臭くない! 美味しい!」
「……うん、うまい。ちゃんと腹に来る。パンって、すげぇな」
リュクも、口の端に笑みを浮かべる。昨日よりも少しだけ、やわらかい顔。言葉少なに、それでも確かに伝わる“気持ち”があった。
パンと魚の温もりが、心の距離をすこしだけ近づける。
風が通り過ぎた縁側で、マヒナはそっと、胸の奥があたたかくなるのを感じていた。