魔法とパンの午後三時
朝の仕込みが終わって、焼きあがったパンが並ぶ工房に、やわらかい光が差し込んでいた。
おばあちゃんは椅子に座ってひと休み、マヒナは、その隣でひとつの古い本を開いていた。
昨日、町の古書店で買った――魔導書。
「“初学者のための詠唱と元素論”……って書いてあるんだよね」
マヒナは小さな声でつぶやいて、指先で書かれた文字をなぞる。
くるりと巻いた筆跡、魔力の波長を込めるための呪文の音律。
前の世界では見たこともないような記号が並んでいたけれど、不思議と“読める”ことにマヒナ自身も驚いていた。
この文字……わかる。うん、たぶん、“マヒナ”が昔に教わったんだ
前世の記憶と、この世界の身体――その境目は、日が経つごとに曖昧になっていく。
でも、それがなんだか心地よくて、まるで自分の中で新しい言語が芽吹いているみたいだった。
「基礎魔法五系統――風・火・水・土・雷」
一文を指でなぞりながら、マヒナは声に出して読む。
「“これらの基本元素を用いた詠唱は、身体の魔力流と共鳴し、術者の意図を現象化させる”。……うんうん」
ふと、横から湯気のたつお茶が差し出された。おばあちゃんだった。
「魔導書、面白いかい?」
「うん。すごく……知ってるようで知らなかったことが、ちゃんと書いてあるって感じ」
「そうだろうとも。マヒナは小さいころ、詠唱よりパンの焼き時間にばかり気を取られてたからね」
「え、そんなこと……!」
「ふふ、冗談さ」
おばあちゃんが笑って、肩をすくめた。
その声を聞くだけで、どこか心がほどける。
マヒナは再びページに目を戻す。
「風の魔法は“軽さと流れ”の制御。火は“熱と速度”、水は“浸透と調整”、土は“堅さと防御”……」
「それを組み合わせて、魔法は多彩になる。たとえば、パンを焼くときの熱を調整したり、捏ねる空気を均一にしたりするのも応用さ」
「そうか……パン焼きにも関係あるんだ」
おばあちゃんはひとつ頷いて、少しだけ真剣な顔をした。
「魔法は、なにも“戦うため”だけにあるんじゃない。暮らしの中で使えば、心の在りようだって変わっていく」
「うん……」
ページをめくると、詠唱の例文がいくつも並んでいた。
「堅き大地の守り手よ、盾となりて我を囲みたまえ 揺るがぬ意志の殻として――『ロックシールド』」
「凍てつく眠りの精よ、静かに降りたまえ 透明なる静寂の刃となりて――『フロストレイン』」
そしてその下には、魔法の“型”の図解と、魔力の循環図が。
(この詠唱、昨日おばあちゃんが釜に使ってたのと似てる……)
マヒナは、ふっとひと息つきページをめくると、そこにあったのはひとつの項目――
『無詠唱について』
「……無詠唱?」
声に出して読んだその単語に、おばあちゃんがちらりと目を向けた。
「ほう……そこまで読んだかい」
「これ……呪文を言わなくても、魔法が出せるってこと?」
「そうさ。詠唱は本来、“魔力の型”を定めるための導線。だけど熟練すれば――言葉のかわりに、“意志”と“回路”だけで動かすことができる」
マヒナは目を丸くして、さらに本を追った。
『無詠唱は術者の“記憶”と“身体魔力循環”に大きく依存する。魔力操作に慣れた者は、意図だけで発動可能となるが、その分だけ暴走・誤作動の危険も大きく、訓練を積んだ者以外の使用は非推奨とされる』
「記憶と……身体の魔力の流れ?」
「そう。詠唱は、初心者のための“道しるべ”さ。だが熟達した術者は、その道を覚えているから、わざわざ言葉にしなくても、心の中で扉を開けられるようになるんだよ」
マヒナは思い出していた。
昨日、あのパンを焼いたとき。
薪釜に魔法を点けるとき。
確かに、おばあちゃんの呪文をそのまま口にした。
でも――
自分の中では、すでに“どうなるか”が、わかっていた気がする。
まるで、魔法そのものの形が、すでに掌の中にあったみたいに。
「……もしかして、私も……無詠唱、できる?」
「ふふ。あんたは変な子だったからね、昔から。言葉より先に、手が動いてた」
おばあちゃんは冗談めかしてそう言ったけど、マヒナは真剣な顔で手をかざす。
風の魔法。“空気を撫でる”程度の、微細な魔力。
……風よ、動いて
声には出さず、ただ心の中で呼ぶ。
すると、マヒナの指先から、わずかに空気がふわっと動いた。
テーブルの上のハーブの束が、かすかに揺れる。
「!」
「……やっぱり、向いてるんだねぇ。魔法ってやつに」
おばあちゃんは頷いて、マヒナの頭をぽんと撫でた。
「けどね、無詠唱は“便利”だけど、“粗雑”になりがちでもある。形をきちんと制御できなければ、ただの力任せで終わるんだよ」
「うん……気をつける」
マヒナはページを閉じ、魔導書を大切そうに抱えた。