風はパンを焼き、波は魚を連れてくる
家へ戻るころには、日が西の空に傾いて、屋根の端が金色に染まっていた。
玄関の扉を開けると、パンとハーブのやさしい匂いがふわっと迎えてくれる。焚き火の薪がぱちぱちとはぜる音が、工房の奥から聞こえてきた。
「ただいまー」
靴を脱ぎながらそう言うと、工房の扉がきいと開いて、銀髪のおばあちゃんが顔をのぞかせた。
「ああ、おかえり。遅くならなかったね」
「うん、町の広場まで歩いて行って、焼きリンゴももらったよ」
「それは良かったねぇ。ほら、手を洗ってきな。今日はちょうど良いミルクが手に入ったから、夕飯はポタージュにしようと思ってるんだよ」
「うん……あのね、えっと」
マヒナは、少し躊躇ってから、そっと口を開いた。
「明日の夕方……日が落ちるころに、もう一度、外に行ってもいい?」
おばあちゃんは、少し意外そうにまばたきをした。それから、すぐに穏やかな笑みに変わる。
「誰かと約束でもしたのかい?」
「うん……今日会った子。漁師の息子で、リュクっていうの。お魚とパンを交換しようって話になって……」
おばあちゃんはしばらく黙っていたけれど、やがて「ふふん」と笑った。
「まあ、パン屋の娘らしい理由じゃないかい。いいとも。けれど、日が暮れる前には戻るんだよ。火が灯る前にね」
「うん、わかった!」
マヒナはぱあっと顔を明るくして、荷物を置いて着替えに向かった。
*
次の日の夕方、籠にパンを包み直して、西の埠頭へ向かったとき、空は紫と藍の境目をなぞっていた。
リュクが言っていた波止場の角には、古びた木の柵があって、その隣に、ちゃんと少年の影があった。
「お、来たか」
リュクは、手に小さな布袋を持っていた。
「干す前のやつ。まだピチピチしてるぞ。たぶんさっきまで泳いでたやつ」
そう言って見せられたのは、銀色に光る小ぶりの魚が三匹。 マヒナは自分の籠から、あたたかさを残した丸パンを取り出す。
「ハチミツとナッツ入り。さっき焼いたやつ」
「……匂いがすげぇな。うちじゃ嗅いだことない匂いだ」
リュクは受け取ったパンをじっと見て、それからひと口、かじった。
「……んぐ」
「どう……?」
「……うまい。やばい、これ。なんだ、パンってこんな……甘いのか?」
「魚も、ありがと。塩して干せば……おばあちゃん、きっと喜ぶと思う」
二人の影が並んで、海の匂いの中、静かに揺れていた。
そしてその夜――
マヒナはおばあちゃんと魚の下ごしらえをしながら、リュクのことをぽつぽつと話した。
おばあちゃんは、うんうんと頷きながら魚をさばいて、最後にこう言った。
「……ふしぎな子と出会ったね。でも、悪い気はしないよ。魚も良い顔してるし」
マヒナは小さく笑った。
この世界で、誰かと「何かを交換する」って、こんなに嬉しいことなんだ。
焼きたてのパンと、釣りたての魚。
それは、マヒナとして生まれ変わった私の小さな人生の中で、確かな第一歩だった。