風と鐘の鳴る町で
パンを焼いた翌朝も、空は静かで、風が気持ちよかった。
薪窯の煙が細くのぼっていく裏庭には、洗い立てのシーツがひらひらと揺れていて、その下を、あたし――マヒナは、小さなかごを提げて歩いていた。
「今日は休みだよ、遊びに行っといで」
そう言ったのは、おばあちゃんだ。
パンを少しと、買い物用の銀貨をかごに入れてくれた。
あと、「気をつけるんだよ」と何度も念を押して。
城下町に入ると、小道には小さな白い花が咲いていた。土の匂い。草の匂い。少し遠くから羊の鳴き声が聞こえる。
ああ、本当に、異世界なんだ……
きのうは工房と家の中だけだったから、実感が追いついてなかった。
でもこうして歩いてみると、町の空気そのものが違う。
空気がやわらかくて、色が深くて、時間がゆっくりしてる気がする。
小道を下ると、石畳の広場に出た。そこが町の中心部で、ちょうど噴水が建ていた。
風に揺れるテント、笑い声、羊毛と野菜の匂い。
いくつもの人がすれ違って、誰もが「今日も元気そうだね」って顔をしてる。
どこか懐かしい、でも新しい景色。
(うわあ……)
目がきらきらしてるのが、自分でもわかる。
いや、たぶん体の中の“マヒナ”の記憶も、嬉しがってるんだ。
「おや、マヒナちゃん!」
呼ばれて振り返ると、焼きリンゴ屋のおじさんが手を振っていた。
黒く日焼けした顔がにこにこしていて、笑うと皺がぐしゃっと寄る。
「久しぶりじゃないか。今日はひとりかい? おばあちゃんは元気?」
「う、うん……元気だよ! あの……リンゴ、すっごくいい匂い!」
「へへっ、ありがとよ。特別に、焼きたてのやつ一本あげよう!」
紙に包んで手渡された焼きリンゴは、外がカリカリ、中がとろとろ。
バターとシナモンの香りが鼻をくすぐる。
「ありがとう!」
そう言ってぺこりと頭を下げると、おじさんは「またな!」と笑って手を振った。
そのあとは、にんじんを選んでるうさ耳の女の子、風の魔法で埃を飛ばしてるお姉さん、空を見上げて笛を吹いてる少年……。どこを見ても、まるで絵本の続きみたいな世界。
すごい、すごいな……この町
なんとなく、ひとつひとつが胸に沁みてくる。
この世界は、ちゃんと生きている。私がいなくても回っていて、でも、私もその中にいていいんだって、そう思える。
ふと、遠くで鐘の音が鳴った。高く、澄んだ音。塔のてっぺんから響く、それは“昼の合図”なのだと、どこかの記憶が教えてくれた。
ああ……やっぱり、ここで生きていくんだ
私は、かごをぎゅっと握りしめて、石畳を踏みしめる。
歩くたび、風が背中を押してくれる気がした。
帰り道、通りすがりの小さな書店で、ふと目にとまったのは――魔法詠唱の入門書。
古びた皮の表紙をめくると、見たことのない呪文の文字がぎっしりと並んでいた。
魔法も、もっと知りたいな
魔法とパン。きっとそれが、マヒナの人生なんだ。
私は笑って、本を一冊買った。
そして、その帰り道。
風のいたずらか、路地の角で、ひとりの少年とぶつかってしまった。
「ご、ごめんなさ――」
顔を上げた瞬間、その少年の金色の目が、真っすぐこっちを見つめていた。
黒髪。日焼けした肌。腰には、細身の剣。
一瞬だけ、何かが胸を突いた。
「……あんた、見ない顔だな」
少年はそう言って、にやりと笑った。
黒髪が風で跳ね、何かを見抜くような目をしている。
「え、えと……町外れでおばあちゃんと一緒にパン屋をしてる者ですけど」
「パン屋、ね」
少年はふっと目を細め、崖下の海をちらと見た。光の粒をはね返す水面に、かすかに夕日が揺れている。風に乗って、干した魚の匂いが流れてきた。
「この町でパン屋なんて、ちょっと変わってるな。漁師の町だぜ?パンなんて貴族街でしか売れないだろ?」
「……まあ、そうですね。あんまりお客さん来ないけど、パンはちゃんと焼いてます」
マヒナがそう言うと、少年はくっくと笑った。
「そっか。焼いてるのか。なら今度、食わせてくれよ。」
その笑い方は軽くて、悪びれない。
「……それで、あなたは?」
「あ?」
「ここ、あんまり人が来ない場所だから。あなたこそ、何者?」
マヒナの問いに、少年はひときわ強く吹き抜けた風を受けながら、しゃがみこんだ。
「オレは町外れの漁師の息子だよ。名前は――リュク。あんたと違って、パンより魚のにおいのする場所で育ったってわけだ」
「……ふぅん」
マヒナは、籠を胸の前で抱えなおしながら、リュクという少年を見つめた。日焼けした肌と海の匂い。風に流れる塩気のせいか、さっきまで甘かった焼きリンゴの余韻が、舌の上でゆっくり薄れていく。
「パンと魚、正反対だね」
「だな。そっちは小麦粉とバター、こっちは網と塩と血の匂い」
リュクは立ち上がり、腰につけたナイフの鞘を軽く指で叩いた。切っ先の鈍い音が、路地に短く響く。
「魚さばくのにこれ使う。魔法なんか使えないからな、俺は」
「……魔法、使えたら便利だけど」
「お前、使えるのか?」
マヒナは少し戸惑って、それからこくんと頷いた。
「火と……風なら。ちょっとだけ。パン焼くのに必要だから」
「へぇ、パン焼き用の魔法使いか」
「……なんか、変な言い方しないでよ」
ふくれっ面を見て、リュクはまた笑った。からかうようで、でも不思議と嫌な感じじゃない。
「悪い、悪い。面白いなって思っただけ」
夕陽が傾きはじめ、リュクの影が長く地面を這った。マヒナの影と、途中で交わって、海風に揺れていた。
「なあ、パンって……余ったりする?」
「え?」
「もし余ったらでいい。魚、たまに余るんだよ。網が重なるときとか。干す前のやつ。交換っていうか、そういうの、できるかなって思って」
その言葉に、マヒナは目を見開いた。
知らない誰かと、自分の焼いたパンを「交換」する。
前世ではあり得なかったことだ。
でも、ちょっとだけ――心がふわっと浮いた。
「うん。……いいと思う」
「よし、じゃあ次の夕方。西の埠頭、波止場の角な。そこで会おう」
「え、勝手に決めるの?」
「ダメか?」
「……ダメじゃないけど」
リュクは片手をひらりと振って、あっという間に角の向こうへ走り出していった。黒髪が夕陽に光って、最後にこちらへ振り返ったとき――
その顔が、なんとなく嬉しそうに見えた。
ぽつんと取り残されたマヒナは、かごを胸に抱きしめたまま、そっとひと息ついた。
風がまた吹いた。日が落ちて、町のあちこちから焚き火の匂いが立ち昇る。
魚とパン。……変な組み合わせだけど
でも、悪くないかもしれない。
明日の朝は、少し多めに生地を仕込んでみよう。
そう思いながら、マヒナは帰り道を歩きはじめた。焼きリンゴの香りを残しながら、パンと魚の風景を胸に描いて。