風のあとさき
朝、セントベルの空は一面の薄靄に包まれていた。夏祭りの翌日、町はまるで昨夜の熱を名残惜しむように、ゆっくりと目を覚ます。
工房の窓から見える風布が、まだ風に揺れていた。祭りが終わっても、風は町に残っている。
「マヒナ、起きたかい? ほら、朝のパン、焼き始めるよ」
おばあちゃんの声に、マヒナはキッチンへ顔を出す。少し寝坊してしまったけれど、表情はやわらかい。
「今日は……ちょっといつもより軽い生地にしてみようかな。昨日のパイの残りの粉、少し混ぜてみるね」
「おや、それは良い朝になるね」
粉をこね、手のひらで押して、台の上に返す。パタン、パタンと響く音が、昨日までの祭りのざわめきを吸い込むように静かに響いた。
午前のうちに焼きあがったパンをいくつか籠に詰め、マヒナは町へ出た。祭りの後片付けに動く人々のあいだを、ふわりふわりと風が歩いていく。
広場の風車灯は外されていたけれど、地面には昨日の紙吹雪がまだ残っていた。子どもたちがその上を駆けまわり、大人たちは笑いながら掃除している。
ミアもその中にいた。白いスカートの裾をたくし上げ、ほうきを片手にせっせと働いている。
「おーい、マヒナ!」
リュクの声。振り向くと、魚籠を片手に小舟を引いて歩いてくる姿があった。
「朝から一回出たけど、ちょっとだけ取れた。お裾分け」
「ありがとう、じゃあ……これ、昨日のパイと同じ生地で作ったやつ。」
パンと魚の交換。ふたりのやりとりは、もう町の風景の一部のようだった。
その午後、ミアがマヒナを森の外れに誘った。
「ちょっとだけ、涼みに行かない?」
白樺の森は、夏でも木陰が深く、少し歩くだけで汗が引いていく。
「……ねえ、マヒナ。祭り、どうだった?」
「楽しかったよ。ミアの舞、すごくきれいだった」
「ありがとう。でも……わたしね、あのとき、ちょっとだけ泣きそうだったの」
「え?」
「……風が、すごく優しかったから。私が生まれる前に亡くなったお母さんが、私を包んでくれるみたいで……それが、すごくうれしかった」
ミアはそう言って、両腕をそっと広げるように、風を受けた。
「だからね……マヒナ。あなたが隣にいてくれて、良かったって思ったんだ」
マヒナの胸の奥が、小さく震えた。
――わたしは、“あなたのマヒナ”じゃない。けど、それでも、その言葉があたたかくて、今のわたしを赦してくれる気がした。
夕方、町へ戻ると、リュクが広場の端で何かを修理していた。折れた風車の骨組みを直している。
「明日、兄貴と船の修理手伝いに行くんだ。ちょっと遠出するかもしれない」
「遠出?」
「うん。半日かけて、南の島の入り江まで」
リュクは手を止め、空を見た。
「オレさ、いつか……この町からもっと遠くへ、自分の船で行ってみたい。でっかい帆を張って、世界中の風を受けてさ。……マヒナのパンを持って」
「ふふ、それじゃあ冷めちゃうよ」
「いや、冷めてもマヒナのパンの味は忘れないから。大丈夫」
夕焼けに笑い声が溶けていった。
夜。パン屋の窓辺に風布が揺れている。祭りは終わったけれど、風はまだ、町にいる。
マヒナはテーブルに座り、今日受け取った魚の下ごしらえをしていた。おばあちゃんは、湯気を立てるスープ鍋を混ぜている。
「……風って、不思議だね」
「どうしたんだい、急に」
「昨日の夜、なんとなく思ったの。精霊が、この町のことを見守ってくれてるような気がして」
「……ああ、そうかもしれないね。精霊じゃなくても、風は風さ。目には見えなくても、肌に感じる。そういうものは、大事にしなきゃね」
風の音が、窓の外から聞こえた。
それはまるで、誰かが名残惜しそうに町を通り過ぎていくような――けれど、また帰ってきてくれるような、そんな音だった。
マヒナは湯気に頬をゆるめながら、そっとつぶやいた。
「……また、来年も、風祭りができますように」
その願いを、風が拾っていった。