風の夜、灯の音
セントベルの広場が、いつもと違う光に包まれていた。夕暮れが溶けきらぬうちから、魔導灯がぽつぽつと灯されはじめ、空が紫に染まるころには、町全体が淡い金の靄にくるまれていた。
風祭の夜が、はじまったのだ。
家々の軒には銀糸で編まれた“風布”が張られ、道の端々に、魔力でくるくる回る風車灯。屋台からは香ばしいハーブ焼きや、蜂蜜たっぷりの麦菓子の匂い。そこに風がふわりと吹けば、すべてが甘やかに混ざり合って人々の頬を緩ませる。
マヒナは、こもれび亭特製の“風まかせパイ”を入れた籠を腕に、広場の裏手から回り込んでいた。パイは風の魔素を練りこんだマナ粉で焼き、焼き上げの最後に風魔法で一気に熱風を通す。そのおかげで外はさくさく、中はとろけるほどふわふわに仕上がる。
「マヒナー! ここここ! こっち来てー!」
ミアの声に、マヒナは籠を抱えたまま手を振る。すでにミアは広場の中央、特設舞台のそばに立っていた。
「……ドレス、すごく似合ってる」
「えへへ、ありがと! これね、舞い手用の衣装なんだって。……緊張してきたぁ!」
白と青を基調としたその装束は、ひらひらと風を受けて舞うように仕立てられている。背には金糸の羽根飾り。彼女は今夜の“風の舞”の舞い手に選ばれていた。
“風の舞”――それは祭りの中心で、町に風をもたらしてくれる精霊へ感謝を捧げる踊り。誰でも踊れるわけではなく、精霊の気配に敏感な者が選ばれるといわれていた。
ミアの緊張をよそに、リュクがパンを頬張りながらやってくる。
「……これ、ほんとにうまいな。」
「でしょ?今日のために頑張って作ったんだ。」
「……オレさ、この祭り、大好きなんだ。風が優しくなるから」
「優しく?」
「うん。漁に出てる時と違って、今日は、なんていうか……背中押してくれるみたいな風が吹いてんだよ」
リュクの言葉に、マヒナはちょっとだけ目を細めた。
……風って、見えないけど、ちゃんと感じられるんだな
やがて、楽士たちがステージに現れ、風の竪琴、空鳴り鼓、笛、魔導弦を鳴らしはじめた。旋律は風に乗り、町の空気に溶け込んでいく。
「ではこれより、“風の舞”を」
司祭の声が響いた。広場が静まり返る。
ミアが、光の輪の中心へ進んでいく。衣装が月明かりを反射して、ほんの少し宙に浮いたように見えた。
足音は静かで、旋律にぴたりと重なる。腕をふわりと広げるたび、布の羽がゆれる。風が、それに応えるように吹く。
町の人々が見守るなか、風の精霊が微笑んでいる――誰もがそう思った。
ラストのひと廻りで、舞台の上空にふわっと風が渦を巻いた。花びらのような光の粒が舞い上がり、空へ、空へ……。
「……見たか、今の」
リュクがぽつりと呟く。
「精霊だ」
マヒナは何も言わず、ただミアの背を見つめていた。あの光の粒はたしかに、誰かの祈りに、風が応えた証だった。
その後、祭りはにぎやかな音楽と共に最高潮を迎えた。広場では踊りの輪ができ、屋台はどこも行列。パンも全部完売して、マヒナは籠だけ抱えてベンチに座っていた。
「おつかれー!」
ミアが駆け寄ってくる。髪には光の粒がまだ残っているようで、いつも以上にきれいだった。
「緊張したけど……楽しかった!」
「すごくよかったよ。風が、喜んでた気がする」
「うん。私も、そう思った!」
しばらくして、三人並んでベンチに腰かけた。
頭上では風布がさらさらと揺れ、灯が静かにきらめいていた。
「……マヒナ」
リュクが、少しだけ小声で言った。
「来年もさ、また一緒に来ような」
「うん」
マヒナはうなずいた。
うそじゃない。でも本当の自分は――“来年”も私の…まひるのままなのか分からない。
それでも今は、風の中に、確かな灯を感じていた。
風は静かに、三人の頬を撫でていった。