風紋の鏡池
祭り前日の朝、マヒナは焼き上げたパンを布で包み、籠に詰めながら思案していた。
――今年は、行くべきなんだろうか。鏡池に。
港町セントベルでは、風祭の前日、子どもたちが森の奥にある「鏡池」へ出かけ、風の精霊へ“祈りの葉”を流すのが慣わしだった。大人になる前の子どもだけが参加できる、静かで、少し神聖な時間。
「マヒナ、ミアちゃんと待ち合わせしてるんだろ? 遅れちゃいかんよ」
おばあちゃんの言葉に背中を押され、マヒナは重い気持ちをひとつ吸い込んで玄関を出た。
町のはずれ、白樺の森の入口には、もう何人かの子どもたちが集まっていた。誰もが自作の祈り葉――月草の葉に願いを記したもの――を手に持っている。
「マヒナ!」
ミアが駆け寄ってきた。赤みがかった柔らかな髪、花模様のスカート。相変わらず、夏の陽射しが似合う。
「リュクは? 一緒じゃないの?」
「さっき、釣り場から走ってきた。今、祈り葉作ってるって」
「遅刻ギリギリじゃん……」
それでも、ミアの顔は笑っていた。マヒナもつられて、少し肩の力が抜けた。
やがて森の奥から、風祭を司る老女が現れる。彼女は町では“風の語り部”として知られており、白い杖を突いて歩くたび、葉が揺れるような音を立てる。
「今年も、風の道は開かれていますよ。静かに、そして澄んだ心で参りましょう」
森を進むと、蝉の声が次第に遠のき、空気がひんやりとしてくる。白樺の木立の間を、淡い風がすり抜けていく。マヒナの耳元で、誰かが名前を呼んだような気がした。
……マヒナ
違う。私は、まひる――。でも、今ここでは、マヒナでいるしかない。
しん、と胸の奥が鈍く沈む。
鏡池は、小さな泉だった。水面はほとんど波立たず、まるで空を映す鏡のように静まり返っている。岸には、祈り葉を流すための台座が並んでいた。
子どもたちは順番に、祈り葉に手を添えて池へ流していく。
ミアは、迷いのない手つきで月草を水面に滑らせた。葉はふわりと浮かび、風に押されて湖心へ向かう。
「……うまく流れたね」
「うん。風が受け取ってくれたんだよ。マヒナも、ちゃんと流れるよ」
「……うん」
自分の順番が来たとき、マヒナは月草の葉を見下ろした。そこには、ただ一行。
『ここにいてもいいですか?』
それが“願い”になるのかすら分からなかった。ただ、それしか書けなかった。
葉を水に乗せると、一瞬、無風のような静けさが訪れた。
――でも次の瞬間、小さな風が吹いた。
葉はするりと水面を滑り、ひとつ、ふたつと輪を描いて、中心へと向かっていく。
その風の通り道に、誰かの視線を感じて振り向くと、そこにはリュクがいた。
「……来たの?」
「おう。なんとか間に合った」
彼は手にくしゃくしゃになった月草を握っていた。
「祈り、ちゃんと書けたの?」
「……うん。まあ、そんなところ」
「ふーん」
マヒナは、それ以上何も聞かなかった。
三人で池を見つめていると、風がまた吹いた。水面に小さな輪が浮かび、波紋は重なり合って、鏡のようだった泉に風紋を描く。
「ミア、ねえ」
「なに?」
「この池、精霊が見てるって本当かな」
「うん、本当だよ。……だって、ほら」
ミアは水面を指さした。
「祈ったあと、心が軽くなるもの。精霊が受け取ってくれた証拠だよ」
「……そうだと、いいな」
マヒナは風に揺れる葉音を聞きながら、そっと目を閉じた。
“ここにいてもいい”と、願った自分を、風は受け入れてくれただろうか。
何も答えは返ってこない。ただ風だけが、森を渡り、彼女の頬を撫でていった。
その夜、町に戻ったマヒナは、祈りの葉を思い出しながら、パン生地を捏ねた。言葉にできない願いは、きっとパンにも宿る。
そして窓の外では、風布が音もなく、夜風にたなびいていた。