風祝の準備
海からの風が町を通り抜け、白い石畳の路地を軽やかに駆けていく。港町セントベルに、夏の風祭の季節がやってきた。
祭りの準備が始まると、町の雰囲気が一変する。青と銀の彩布が通りの上に張られ、風を受けてひらひらと舞い上がる。子どもたちはくるくる回る風車を持って走り回り、大人たちは手すきの時間に屋台の看板を磨いたり、楽器の調整をしたり。
「風がちょっと、踊ってるみたいだね」
マヒナ・ロッセは、パン屋「こもれび亭」の軒先から、風布が踊る様を見上げていた。ブロンドがかった栗色の髪が、そよぐ風にふわりと揺れる。
「マヒナ、そこの籠のパン、工房に運んでおくれ」
店の奥から聞こえるのは、おばあちゃんの声。アンナ・ロッセは元・魔法使いで、今は町で一番美味しいパンを焼く老婦人だ。
「はーい!」
籠を抱え、工房の扉をくぐると、薪窯の中でオレンジ色の火が揺れていた。風魔法で火を調整し、マナを練り込んだパン生地がじっくり焼かれていく。焼ける香りが、もうそれだけで幸せをくれる。
「今日の試作品、“風まかせパイ”はどうだった?」
「うん! 焼き上がりふわふわで、マナ草の香りもちゃんと残ってたよ」
「そうかい、それならよし。あとは祭り当日までに、百個は焼いておかないとねぇ……」
マヒナは苦笑いしながら、袖をまくった。おばあちゃんは「準備」となると、誰より張り切るタイプだ。
「ねえおばあちゃん、今年の“風祝の柱”って、広場に立てるんだよね?」
「ああ、今日あたりから立ち始める頃さ。あれは風の精霊たちに“ここが祭りの中心です”って伝えるしるしなんだよ」
「じゃあ、見に行ってこようかな。リュクに配達もお願いされてるし」
「うんうん、行っておいで。風に転ばされないようにね」
マヒナはパンを包んだ袋を籠に詰め、扉を出た。西から吹く海風に背中を押されるように、石畳の路地を歩いていく。
町の中心に近づくと、広場の一角に背の高い柱が運び込まれていた。青緑の木でできたそれは、上部に風車のような飾りがついていて、風を受けて回ると淡い光を放つ仕組みになっている。
「おーい、マヒナ!」
リュクが片手を挙げて駆け寄ってきた。潮焼けした肌に、太陽の光がよく似合う。海の匂いとパンの香りがふわっと混ざる瞬間、マヒナはふと笑ってしまう。
「配達、お待たせ。今朝焼いたやつだよ」
「ありがとな! 今日も父ちゃんに持って行ったら絶対、すぐ食っちまうな」
「リュクんとこのお父さん、ほんとパン好きだよね」
「魚とばっかりだと飽きるんだってさ。最初は“パンなんて”とか言ってたのにな」
「……それ、なんか嬉しいな」
ふたりは一緒に柱の立つ様子を見上げた。組み上がった支柱のまわりには、魔法使いの見習いたちが風魔法を使って飾り布を舞わせていた。
「なあ、風ってさ」
リュクがぽつりとつぶやいた。
「どこから来て、どこへ行くんだろうな」
「……うーん。世界をぐるっと旅してるんじゃない?」
「……だったら、オレもいつか風に乗って、遠くまで行きたいなあ」
「小舟じゃ無理だよ?」
「だから、大きな船を作るんだって! 帆がぱあっと広がって、風をいっぱい受けるやつ!」
「……じゃあそのときは、パンも積んでくれる?」
「もちろん! パンがない旅なんて、風のない船みたいなもんだ」
風がくるりとふたりのまわりを撫でて、風布が一斉にひるがえった。光が透け、リュクの髪もマヒナの頬も、夏の始まりの匂いに染まっていく。
その日の夕方、こもれび亭ではふたたび薪がくべられ、パン生地に魔力が練りこまれる。
「今年も、風はちゃんと来てくれそうだね」
マヒナのつぶやきに、おばあちゃんは火口を見ながら静かに笑った。
「風ってのはね、呼ぶんじゃないのさ。感じるもんだよ。呼ばなくたって、来るときゃ来るし、去るときゃ去る」
「……なんだか、リュクみたいだね」
「ふふ、似てるかもねぇ。若い子は、風に似てるもんさ」
ぱち、ぱち、と火の音が心地よいリズムを刻む。
マヒナは天板にパンを並べながら、来る風祭の夜のことを想った。風が見えないなら、せめて風に似た香りをパンに込めよう。遠くにいる誰かにも、届くように。
そうして、夜がゆっくりと焼き上がっていった。