灰色の旅路、銀色の記憶
物置の奥から古びた箱が出てきたのは、パン屋の棚を作り直そうとしていた雨の日のことだった。
木箱には「さわるな危険」と、冗談のような文字が魔法インクで書かれていたが、インクはほとんど消えかけている。蓋を開けると、乾いた紙のにおいと、わずかに残った魔素のきらめきが鼻をくすぐった。
「これ、なんだろう……?」
中には、革のカバーがかかった日記のような手帳と、古い銀のブローチ、そして――一枚の写真。
モノクロームの光を閉じ込めたようなその写真には、若いころのおばあちゃんがいた。笑っている。ローブの裾をたくし上げ、背に細い杖を背負っている。
その隣に、見たことのない若い男の人。きりっとした目元に、風に遊ばれるような髪。二人とも、旅の途中だったのだろうか。背景は見知らぬ山道で、陽が眩しそうに差していた。
「……おばあちゃん……これ、誰?」
マヒナはそっと写真を持ち、パン屋の工房へ戻った。
*
その夜、雨の音を聞きながら、マヒナは夕食の片づけのあと、おばあちゃんに写真を見せた。
「あのね、物置の箱から出てきたの。これ……おばあちゃんでしょ?」
おばあちゃんは目を細めて、その写真を手に取った。指先が震えるほど静かに、それをなぞる。
「懐かしいねえ……よく残ってたね、これ」
「隣に写ってるのは……誰?」
「昔の仲間さ。名前は、いまでも覚えてるよ。ディラン・ヘルト。風の魔導士だった」
「旅してたの?」
「うん、そうだね。私がまだ“アンナ・キサロ”だったころ。あの頃は、まだパンなんて焼いたこともなかったよ」
おばあちゃんは薪ストーブの前に座り直すと、写真を膝に置いて、静かに語り始めた。
「私はね、若い頃、王都のギルドで魔導士をやってたの。いろんな地方に派遣されて、魔物退治とか、調査とか。危ない仕事もあったけど、楽しかったよ。風に乗って、地図にない場所へ行くのが好きだった」
マヒナは黙って聞いていた。
おばあちゃんの話す“アンナ・キサロ”という名前が、すこしだけ遠い他人みたいに響いていた。
「ディランはね、私の相棒だった。風と光の魔法を得意としてて、いつも陽気で、よく笑う人だった。ときどき喧嘩もしたけど、それでも一緒にいれば不思議と落ち着くような人だったよ」
「……恋人だったの?」
マヒナがそっと聞くと、おばあちゃんはふっと笑った。
「そう思われるのも仕方ないね。でも違ったよ。特別だったけど、恋とは少し違う。相棒みたいな……ね」
言葉にできないものがあると、おばあちゃんはそう言った。
「最後の旅でね、あの人は私をかばって、命を落としたんだ」
その一言で、部屋の空気が変わった気がした。
マヒナはことさら音を立てないよう、そっと息を吸った。
「私が無茶な判断をしたから、あの人は巻き込まれた。私一人が生き残った。ギルドには戻らなかった。魔導士としての名前も捨てて、セントベルに来たんだ」
薪がぱちん、とはぜた。雨は止んでいた。
「パンを焼き始めたのは、彼が言ったからなんだよ。“君は火の魔法の扱いがうまい。戦いよりも、誰かを癒すのに使うのが向いてる”って。……そのときは笑って流したけど、いま思えば、正しかったのかもしれないね」
マヒナは何も言わなかった。ただ、おばあちゃんの手の上に手を重ねた。
「ありがとう、マヒナ。こんな話、話すつもりなかったのに。……もう、ずっと昔のことなんだけどね」
写真の中の笑顔は、もう誰にも向けられない。でも、そこに映っていた光は、たしかにおばあちゃんの中に残っているのだと思った。
*
その夜、マヒナはこっそり起きて、物置に戻った。
古い銀のブローチを取り出し、ぬるま湯で洗い、小さな布で磨いた。
ブローチの中央には、風を模した螺旋の意匠。小さく、魔力の名残が光っていた。
「……今でも、少しだけ残ってるんだね」
そして次の日、工房の窓辺の棚に、そのブローチを飾った。
朝の光が差し込むころ、それに気づいたおばあちゃんは、何も言わずに微笑んだ。
マヒナはその横顔を見ながら、パンを捏ね始めた。
火の加減を魔法で調えながら、ふわりと小さく風を呼ぶ。
ふたりの暮らすパン屋には、今日も変わらぬ朝が訪れていた。
でもたしかに、少しだけ、昔の風が混ざっていた。
 




