青い海の約束
小舟は港を離れ、浅瀬の間をぬうように進んだ。リュクは手際よく櫂を操る。マヒナはその後ろで膝を抱えて、海をのぞいた。
「こんなに透明だったんだね、セントベルの海って……」
「朝はもっと透けてるよ。魚も丸見えでさ。あ、そこ見て」
リュクが指差した先、海面近くを光る影がすべっていった。銀色の魚だ。
「わあ……!」
「“ハネツバメ”っていう種類。群れで南の方まで泳ぐ。今の時期はちょうど、外洋から戻ってくるんだ」
「詳しいね」
「親父に叩き込まれたからな。魚のことだけは、ちょっと自信あるんだ」
リュクはそう言って、ほんの少し照れくさそうに笑った。
海は静かだった。波が舟を優しく揺らし、風が二人の間を通り抜けていく。
「マヒナ。……風、出せる?」
「うん。どこへ?」
「背中に向けて。ちょっとだけ、でいい」
マヒナは頷いて、手をそっと掲げた。
「荒ぶる風の子よ、我が前を駆けぬけたまえ
すべてを吹き払う乱舞となれ――『ウインドインパクト』」
軽詠唱を囁くと、ふんわりとした風が帆に満ちる。舟が前にすべり出した。
「うわ、すげぇ……。ほんとに進んだ」
「ふふ。風魔法って、意外と使えるでしょ?」
「……俺さ」
リュクが、ふいに声の調子を変えた。
「いつか、自分の船を持ちたいんだ。でっかいやつ」
「えっ」
「小舟じゃなくて、何人も乗れるような、大きな船。帆もでっかくて、甲板も広くて。そういうのを自分の手で作って、世界を回ってみたい」
マヒナは風の指先を止めて、リュクを見つめた。彼はまっすぐ、水平線の向こうを見ていた。
「うちの港だけじゃ、もったいない気がしてさ。いろんな町の海を見てみたい。変な魚とか、初めてのパンとか、知らない風とか。そういうのを全部、自分の船で取りに行きたいんだ」
「……すてきだね」
マヒナの声は、自然とやわらかくなっていた。
「でしょ? 誰に言っても笑われるけどな。金もねえし、魔力もそこまで強くないし……だけど、夢くらい持ってたっていいじゃんって、思ってる」
「笑わないよ、私。むしろ……応援したい」
リュクはようやくマヒナの方を向いた。風に髪がなびいて、彼の瞳が、陽の光に少し眩しそうに細められていた。
「そのときはさ、マヒナのパンも積んでいこうかな。世界でいちばんおいしいパン屋って、噂されるようにさ」
「えー、船の上のパン屋さん?」
「いいじゃん。海の風で発酵したパンって、きっとうまいぞ?」
二人は、顔を見合わせて笑った。
やがて日が傾き、風が少しひんやりしてきた。マヒナはもう一度、風を起こし、小舟を港へと導いた。
「ねえリュク。船の名前、もう決めてる?」
「んー、まだ。……でも、ひとつだけ決めてることがある」
「なに?」
「最初に乗せるのは、あんたにする」
不意に言われて、マヒナは一瞬言葉を失った。
「……ばか」
「へへ。言ってみただけ」
その後の時間は、風の音と波の音ばかりが、二人の間に漂っていた。
港に戻るころには、空は茜に染まっていた。マヒナはふと、風の匂いを吸い込んだ。
それは、澄んだ潮風をはこぶ匂いだった。