魚の棲む風
港の朝は、いつも魚の匂いと潮風の音から始 まる。
だけど今日は、それにもう一つ――ほんのり甘くて香ばしい匂いが、町のはずれまで届いていた。
「……やっぱ、ここは匂いがちがうな…」
漁師の息子、リュクは「こもれび亭」の扉の前に立っていた。片手には小さな布袋。もう片手は緊張のあまり、ぎゅっと握られていた。
扉を叩こうとして……やめる。
どう言えばいいのか、まだ決まってなかった。
そのとき――扉の奥から、かすかに風が吹いた。パンの匂いを連れてきた、ふわりとした風。
「……魔法、か」
前にマヒナが見せてくれた、小さな風の魔法。あれは何気ない仕草の一つだったのに、リュクには強く焼きついていた。
――帆が張れないとき、風が起こせたら。
――焚き火がつかない朝、火が灯せたら。
その手段が「魔法」なら、やってみたい。い や、やれるようになりたい。
リュクは布袋を握り直し、思い切って扉を叩いた。
「おーい、マヒナ! 魚、持ってきたぞ!」
中から小さな足音。やがて開いた扉から、ふわっとハーブとパンの香りが流れた。
「リュク? 今日もありがと! 朝の分、焼けてるよ」
マヒナが笑って迎えてくれる。その笑顔に、緊張が一瞬ほぐれた。
――だけど言わなきゃ。今日こそは。
「なあ、マヒナ……」
「うん?」
「お前、魔法使えるだろ?」
「うん、パンを焼いたりするやつね」
「……教えてくれないか。おれにも、魔法」
言ってしまった。胸がドクドクする。でも、後悔はない。
マヒナは一瞬きょとんとして、それから、少し考えるように目を細めた。
「……そっか。うん、いいよ」
「えっ、ほんと!?」
「でも、教えるってほどじゃないよ? 私の魔法は生活用だし、でも基礎魔法しか教えられないよ?」
「それでいい! やってみたいんだ、魔法ってやつ!」
リュクの目はきらきらしていた。マヒナはその熱に、どこか胸がむずがゆくなるのを感じながら、空になったカゴを手に庭へ出た。
「詠唱から教えるね。詠唱って言っても、日常魔法用の簡単なやつだけど」
「よし、やってみる!」
リュクが気合いを入れると、マヒナは片手を掲げて、指を少しすぼめた。
「まず、基本の風の魔法。“風の囁き”って呼ばれてる魔法だよ。火起こし、部屋の換気、小鳥の追い払いなんかに使われる、日用魔術の基本中の基本」
「ふむふむ」
「詠唱は――」
マヒナは指先に風を集めながら、少しだけ声を張った。
「荒ぶる風の子よ、我が前を駆けぬけたまえ
すべてを吹き払う乱舞となれ――『ウインドインパクト』」
ふわっと草が揺れ、リュクの髪がふんわり浮いた。小さな風の玉がマヒナの手のひらに渦を巻いて、すぐに消える。
「うお……ほんとに、出た」
「詠唱の中で、“荒ぶる風の子”って呼びかけて、“乱舞となれ”って命令するの。あと、魔法語として“ウインドインパクト”って挟むと、魔力の流れが安定するよ」
「ウインドインパクト、ね……!」
リュクは同じように手を上げ、息を吸った。
「荒ぶる風の子よ、我が前を駆けぬけたまえ
すべてを吹き払う乱舞となれ――『ウインドインパクト』」
……しかし風は動かない。
「うっ、出ない!」
「焦らないで。大事なのは、魔力の流れを意識すること。」
「……魔力の流れ…」
「うん。風は、どこにでもある存在
マヒナは手をそっとリュクの背に当てる。あたたかい指の感触に、リュクの背筋がピクリと反応した。
「はい、もう一回。魔力の流れを、胸の奥で感じながら、言ってみて」
リュクは、静かに目を閉じた。海で感じた潮風、凪の前にそっと吹く風……その記憶を思い出す。
「荒ぶる風の子よ、我が前を駆けぬけたまえ
すべてを吹き払う乱舞となれ――『ウインドインパクト』!」
次の瞬間、草がわずかにゆれ、マヒナの前髪がふわりと持ち上がった。
「……やった!」
「吹いたよ、リュク! ちゃんと風、呼べた!」
「マジか!? ほんとに?」
リュクが手を広げると、風はそれに応えるように指の隙間をすり抜けていった。
「たぶん、今のは魔力の流れを“感じよう”って思えたからだよ。」
「へぇ……なんかさ、ちょっとだけ、魔法使いになれた気がする」
リュクは照れたように笑った。マヒナも、どこかくすぐったい気持ちになって笑い返す。
「じゃあ、次は火の基本詠唱ね。パン焼くときにも使うやつ」
「まって、メモ、メモ!」
「ふふ……ちゃんと勉強熱心なんだね、リュクって」
その笑顔があんまりにも楽しげで、リュクは思わず手元のメモを落としそうになった。
魔法の力は小さなものだけど、それでも、二人の間にふわりと吹いた風は確かだった。
港町の青空の下――ふたりの魔法修行が、始まったばかりだった。