夜風と、プリント
コーヒーの缶が、ぬるくなっていた。
ベンチの隣に置いたそれに口をつける気も起きず、まひるはスマホの時計をちらりと見る。
「23時42分」
(……終電、ギリ間に合うな)
街灯の光が、白いプリント用紙を浮かび上がらせていた。
日本史、英語、現代文。赤ペンでの書き込みは、つけ焼き刃の努力の証。
「次の期末で赤点取ったら……留年、だもんなぁ……」
口に出してみると、余計に重かった。
佐伯まひる、17歳。都立橘高等学校、2年B組。
見た目はどこにでもいる高校生。身長は低めで、くせ毛をポニーテールにまとめてる。
運動はまあまあ。成績はギリギリ。趣味は特になし。
「せめて、テスト期間くらいはがんばろうって思ったのになぁ……」
深夜のコンビニでバイトをして、終わってからファミレスで勉強して、今ようやく帰るところ。
そんな生活も、すでに一週間目。
頑張ってるのに、なんだか何も変わらない――そんな焦りと、疲れ。
「明日……てかもう今日か……も、朝からか」
言葉に出すだけで、うんざりした。目の奥がジンジン痛む。
肩に食い込むリュックの重み。頭の中には、次の問題のことばかり。
(今の生活がすごくイヤってわけじゃない。ただ……)
ただ――
**“どこにも、自分の居場所がない感じ”**が、ずっと続いていた。
母親は夜勤ばかりで顔を見ない。
父親は数年前に家を出たきり、連絡すらない。
LINEの通知は、学校関係だけ。友達のグループチャットにも、いつの間にか入っていなかった。
「……私、なにやってんだろ」
カバンの中に詰め込んだノートも、参考書も、空のペットボトルも、全部いっぺんに捨てたくなった。
でも、そんな勇気もなかった。
あたしは“普通の高校生”になりたかっただけ。
友達と笑って、部活して、恋して、卒業して。
そのどれにも、触れられないまま、気づけば2年目も終わろうとしていた。
(このまま3年になって、卒業して、社会に出て……何が残るんだろ)
赤信号で立ち止まりながら、そんなことを考えていた。
目の前には横断歩道。信号はまだ赤。
周囲に人はいない。車通りもほとんどない。
ぽつんと、自分だけがそこに立っている気がした。
風が吹いた。ひんやりとした、冬の夜の風。
駅まであと2分。
だけど、目の前を遮る信号は――まだ、赤。
(もう渡ってもいいかな。車なんか、来ないし)
そのときだった。
――音が、した。
ギャアアアン、というタイヤの悲鳴。
次の瞬間、眩しいヘッドライトがこちらに向かってきていた。
反射的に目を閉じた。動けなかった。
体が震えていた。足がすくんで、一歩も動けなかった。
(あ……)
世界が、スローモーションになった。
思ったのは、意外なほどどうでもいいことだった。
(明日の、テスト……受けれないな
)
(あのプリント、全部、無駄になっちゃった)
そして――
(こんな終わりってある……?)
まひるの視界が、白く、淡く、ぼやけていった。
誰もいない、交差点。
誰も見ていない、夜。
彼女の体は、ゆっくりと地面に崩れ落ちた。
***
……どれくらい、時間が経っただろう。
闇も、音も、痛みも、なにもなかった。
でも、ふと気づくと――まひるは、風の音を聞いていた。
どこか遠くで、小鳥が鳴いている。
鼻をくすぐる、焼きたてのパンのような、ふわふわ甘い匂い。
まひるは、まぶたをおそるおそる開けた。
そこには、見たことのない天井。
やわらかなベッド。木製の壁。日差しがカーテンを透かして、床にきらめいている。
あたしは――まだ、生きてる?
いや、違う。じゃぁ何処ここ?
そして聞こえた、優しい声。
「起きたかい、マヒナ。ゆっくりでいいよ。今朝は、パンがよく焼けてるんだ」
まひる――いや、マヒナは、このときまだ知らなかった。
ここが、魔法に包まれた異世界だということを。