03 紅之蘭 著 『クレオパトラの書記官』
マケドニアのアレクサンドロス大王は、自分の名前を冠した町を征服地の随所に建設した。――アレクサンドリア――。だが、一般に、その名は地中海に面した港湾都市を指していう。マケドニアの将軍であった大王の妹婿プトレマイオスは、〝帝国〟分裂後、エジプトの王となり、子孫はこの地を支配した。
エジプトのアレクサンドリアには、古今東西の叡知を集積した大学と図書館がある。
噴水庭園に臨んだ校舎の回廊を歩いていると、後ろから声をかけられた。
「ヒュパティア教授、妾に知恵を貸してもらえまいか?」
声をかけてきたのは、褐色の肌をした細身の女性で、クレオパトラ七世と呼ばれている。――私はその人の書記官になった。
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マケドニア=アレクサンドロス帝国瓦解後、将軍たちによって分割された版図は、アンティゴノス朝マケドニア、プトレマイオス朝エジプト、セレウコス朝シリアの三王国に分割され、ヘレニズム三国と呼ばれるようになる。
旧ペルシャ帝国を領有していたのは、セレウコス朝シリア王国だ。同王国が、エジプトの軍勢を蹴散らしたとき、エジプトはローマ共和国の庇護下に入ったのだが、そのローマ共和国自体も内紛が絶えなかった。
エジプト王国の男系君主は代々、プトレマイオスを名乗る。王統直系が断絶すると、傍系同士で内部抗争を繰り返すようになる。宗主国ローマ共和国も軍閥同士で内輪もめをしていた。クレオパトラ様の父君プトレマイオス十二世陛下は、ローマの名将ポンペイオスを後ろ盾に即位しようとしたが、買収に失敗。そこで、ポンペイオスに対抗していたカエサルを買収して後ろ盾にし、即位するも、ほどなく没した。その際、プトレマイオス十二世陛下は、姉クレオパトラと結婚して共同統治者にするよう遺詔した。王太子はプトレマイオス十三世となり、姉であり妻となったクレオパトラ七世となった。
十八歳で即位したクレオパトラ女王は、どんな手段を用いても、この国を守り抜こうとする覚悟を感じた。
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プトレマイオス十三世は男勝りな長姉クレオパトラ七世を嫌い、次姉アルシノエ四世を共同統治者に選び、クレオパトラ様を追放した。
私は、クレオパトラ様に小アジアに逃れ、彼の地で兵を集めるよう献策した。彼の地に行くと、折しも、ローマ共和国で内戦が生じていた。
このころヘレニズム三国の一つセレウコス朝シリア王国は、パルティア帝国に版図を奪われ滅亡していた。
カエサル、ポンペイウス、クラッススといった三人の将軍達が、広大な共和国の版図を三分割して同盟を結び第一次三頭政治を行い、元老院に対抗していた。カエサル将軍とポンペイオス将軍の武勲は甚だしい。出遅れたクラッスス将軍は、功に焦って、よせばいいのにパルティアにちょっかいをかけて返り討ちにあい、戦死した。
三すくみの均衡が破れたローマ共和国では、元老院がポンペイウスを篭絡したのを発端に、カエサルを排除しようと画策。こうしてカエサルはポンペイウスと雌雄を決することになる。――ポンペイウス将軍を破ったカエサル将軍が、敵将を追撃して小アジアまできていた。
「クレオパトラ様、これは天祐というもの! カエサル将軍を後ろ盾にして、プトレマイオス様に対抗なさるべきです」
「ヒュパティア教授、して、いかにしてカエサル将軍に接近するのじゃ?」
私は、二十一歳になった女王に耳打ちした。
――姉妹喧嘩をしている弟との仲を取り持って欲しい――
そんな口上で、女王からの贈り物がカエサル将軍の帷幕に届く。贈られた宝物の中に絨毯があり、使者がぐるぐる巻きの絨毯を拡げると、中から若い貴婦人が現れた。
――本当の贈り物は私――
女王は進んでカエサル将軍の愛人になった。この演出に将軍は篭絡されメロメロになる。
一旦は仲直りをしたプトレマイオス王だが、事態を知ると女王排除に乗り出すも、百戦錬磨のカエサル将軍の敵ではなく、返り討ちにされてしまった。王の次姉アルシノエ四世は捕虜となり共和国首都ローマ市に送られた。
ほどなくクレオパトラ様はカエサリオン様をお産みになった。このとき末の弟君であらせられるプトレマイオス十四世陛下がいらしたのだが、トリカブトの毒を盛って玉座を降りて戴くことになる。さらにローマから、小アジアの神殿に移されていたアルシノエ四世様のところも刺客を放ち、冥府へお送りする。――赤子のプトレマイオス十五世カエサリオン陛下は、クレオパトラ様の新しい共同統治者となられた。
ところがそのカエサル将軍が、ローマ共和国の元老院派刺客によって暗殺されてしまった。内紛の末に、ローマ共和国は、カエサル様の甥で養子のオクタビアヌス将軍、カエサル様の部下だったアントニウス将軍、レビドゥス将軍で第二次三頭政治を行うことになる。
クレオパトラ様とカエザリオン様は、イタリアにあるカエサル将軍の別荘に赴いた際、アントニウス将軍と顔を合わせている。その誼もあり、アントニウス将軍を篭絡することはたやすかった。アントニウス様は、オクタビアヌス将軍の姉、オクタビア様を夫人にしていたのだけれども離婚。クレオパトラ様と結婚なされた。そして双子であるクレオパトラ・セレネ二世様と、プトレマイオス・ピラデルポス様をお産みになる。
けれどもアントニウス将軍は、オクタビアヌス将軍と争って、滅ぼされてしまった。妻のクレオパトラ様は捕らえられてしまう。――幽閉されていた陛下は、隠し持っていた毒を煽って自害なされた。
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オクタビアヌス将軍は、伯父で養父のカエサル将軍の実子であるカエザリオンが後顧の憂いとなるため毒を盛って暗殺した。それは仕方ありますまい。――別な場所に監禁されていた私は、将軍に手紙書き送った。
クレオパトラ様が、アントニウス様との間にもうけられた王子・王女のお二人は、貴男様を脅かすことにはなりますまい。猶子として手元に置かれ養育なさってみてはいかがでしょうか? そうすれば貴方様の声望は、世界に轟きましょう。
こうしてクレオパトラ様の遺児お二人は、アントニウス様が離縁なされた先妻で、ローマ帝国初代皇帝に即位されたオクタビアヌス陛下の姉君であらせられるオクタビア様によって養育されることになった。
私は、クレオパトラ・セレネ二世様の書記官としてお仕えすることになった。後に、セレネ様は、ローマの属国で騎馬の民ベルベル人の王国・マウレタニアの王ユバ陛下に嫁いだ。同王国は、エジプトの西方、北アフリカに拠っている。陛下もローマ育ちの教養深い方だった。夫妻が王国に赴くとき、私がお供したことは言うまでもない。
『クレオパトラの書記官』了