00 奄美剣星 著 『シーサイドカフェ・秋』
新宿駅前の陸橋交差点。そこから南にいったところに古びたパブ・シャングリラがあった。珈琲と煙草と埃の匂いがたちこめていた。還暦前後の男女が集い、ロックンロールのライブで騒いでいた。
メンバーが、代わる代わる長身の男に声をかけた。
「源さん、やるのかい?」
「当たりまえだ」
「何のために?」
「野心のためにだ」
焼けた肌。身長百九十センチを越える体躯。分厚い胸板。隆々とした筋肉は逆三角形をなしている。頭に霜を戴いてはいるが禿げてはいない。
小さなハウスなので満席だ。
孫のような年頃の娘が、後ろの方で両手を振ると、源さんと呼ばれた男が投げキッスで返した。森山源三、それが男の名前だ。
バンドメンバーが苦笑した。
「夏夜ちゃんって二十歳くらいだろ? カノジョだと? 犯罪だ!」
「恋は時空を超える」
「ぬかせ、エロ爺い」
源三は仲間たちの冷やかしを好意的に受け止めた。
「田舎へ帰る。滅茶苦茶だが、俺には野心って奴がある。これから興す事業も成功しそうな気がする。あの娘がついてこなくともな」
ステージのスポットライトは太陽を思わせる。源三が、ギターを掲げ、雄叫びをあげた。
***
砂浜から、沖にでると、小島が浮かんでいた。弁財天を祀った島だ。TUNAMIで、すっかり地形が変たのだが、鳥居は残されていた。
荒い波の砂浜で、サーフィンには持って来いの場所だった。
White sandy beaches. Sunny ocean. Running surfboard.
Beat in the chest. Even the seasons change, passion for you has not changed.
We shake hands goddess of the island.
A big wave comes, I'll Let stole you.
白い砂浜。太陽が輝く海。走るサーフボード。
胸が鼓動する。季節が変わっても、熱い思いは変わらない。
手を振る島の女神よ。
波がきたら、さらいにゆくぜ。
詞は一九七〇年代ロックだ。腹ばいになって沖に向かった源三が、大波をみつけて立ち上がった。波を横に切ってサーフィンが島を目指して行く。テトラポットの上にはボブの娘が声援を送っていた。潮騒で訊こえはしない。だが何を言っているのかは判る。
「恰好いい!」
――よし、陸に上がったら告ってやる。待ってろ。
源三がはにかんだ。
***
恋太郎が小学生のとき、母親が文化ホールの市民教室で絵を学んでいた。このとき車に乗せられた彼は飛び入り参加させてもらえた。
大人たちは静物デッサンを描いたり、旅行先で撮った写真をもとに風景画を描いたりしていた。
恋太郎はといえば、ホールのあるビル周辺市街地をスケッチブックに描き、妄想を働かせて、廃墟を描いた。――これが年老いた講師の目にとまった。
「面白い子だ。きっと伸びる。今度うちに遊びにおいで」
そういうわけで恋太郎は、休みの日になると一人でバスに乗って講師の画家宅にゆき、デッサンを学ぶようになった。他に弟子はいないので個人授業である。油絵具臭い離れのアトリエには大きなランプがあったので、恋太郎はランプ先生と呼んでいた。
毎回、大きなスケッチブックに、洋酒の瓶、果物、花といった生物を4B鉛筆で濃淡をつけて描く。
「恋太郎君、道を歩くときはね、周りの風景で暗くなっている順番を捜すといい。そうすることで頭の中で絶えず絵を描くんだ」
恋太郎は素直にランプ先生の言いつけを守り、みるみる上達。市民展やら県展にはあたりまえのように入賞する。報告すると老画家はわがことのように喜んでくれた。
ある日、恋太郎はアトリエに行くと、まだ油絵具が乾いていない描きかけのキャンパスがイーゼルに立てかけてあるのをみつけた。裸婦だ。描かれている女性は若く美しい。肘掛椅子に腰かけている女性は短い髪で、肩幅は狭く脇腹から足にかけてなだらかな曲線を描いている。
標準的ではあるが椀型をした乳房、へそ、軽く閉じた両太腿の間まで克明に描かれている。
少し遅れてやってきたランプ先生は、幼い弟子が絵を眺めているのをみると、気まずそうな顔をしながら、そそくさと、キャンバスを部屋の隅に片付けて個人授業を始めた。
帰りに、恋太郎は絵に絵が描かれたモデルと思われる若い女性と庭先ですれ違う。
「恋太郎君ね? 父さんからいつもきいてるわよ」
女性は恋太郎の頬に手をやってから、玄関に入って行った。
それからも恋太郎はランプ先生のアトリエに通った。
小学生のとき、はじめに描いたのは、瓶、ボール、皿。木炭でデッサンを習った。片腕を伸ばし、鉛筆を物差しにして、一・二倍にするとスケッチブックいっぱいに描ける。中学生のとき、スケッチに行こうと誘われた。出かける前に、先生のアトリエで予習をする。
「宇宙には計算されつくした秩序がある。宇宙のかけらである地球もそうだ。自然界のあらゆるものには法則がある。絵だってそうだ。例えばごらん――」
先生は、新聞紙の上にスケッチブックを置いた。木炭の線は、左側の新聞紙から、スケッチブックの真ん中を横切って、右側のスケッチブックに抜けた。
「これが水平線『アイレベル』だよ。スケッチブックから新聞紙にはみ出した両側から、それぞれ測定線を伸ばし、手間でクロスさせる。それに沿って四角形を描く。ビルの土台だな。土台の角から垂直線を描き天井をつければビルは完成する。二点透視図法ってやつだ」
恋太郎は真似て描いた。
先生は講義を続けた。
「次は光の当て方だ。水平線『アイレベル』に直行するように、縦線を引く。水平線の上が太陽である『照点』、下が太陽の真下になる『位置点』だ。太陽の点『照点』から測定線をビルの天井角に延ばす。次に『位置点』からビルの底の角に測定線を延ばす。クロスするところができるだろう。それが影なんだ」
先生は、遠近法で描く画面の中で、等間隔に並ぶ電柱の描き方。山に当たる光の描き方。同色の絵の具で影の濃淡を描き、後で色をつけて行くグリセイユ技法、カマセイユ技法なんかも教えてくれた。
秋の季節、恋太郎は、先生と路面電車にのって、海岸に沿って南に下った。
車窓からみえる風景は、柳がたなびく小さな運河があり、そこをまただ橋がある。両脇の商店街はアーケードになっていた。
停車場で市電を降りた二人は、そこからあまり遠くないところにある砂浜にむかった。 どういうわけだか、絵を描くにはおあつらえむきのベンチが一つ、ぽつん、と置いてあったので、師匠と弟子が座った。
「風を自在に操り、光を支配するんだ。傲慢になれ、恋太郎君。キャンバスに筆をつける瞬間、画家は神になる」
日頃、穏やかな顔の老画家が発する烈しい言葉を、恋太郎は忘れることはなかった。
恩師は、恋太郎が高校に入って間もなく、肺炎で亡くなった。
***
TUNAMIのあと、恋太郎はふつうに高校に通っていた。あの地震でも、校舎はもちこたえたからだ。
放課後になったとき、悪友の愛矢が寄ってきた。
「地図を観ているんだな? サイクリングの下調べか? どこにゆく?」
「南海岸がいい」
「いつゆく? 試験が終わったあたり? しかし冬だが?」
「それがいいんじゃないか」
こうして恋太郎は、思い出の地の海岸を、悪友と自転車でゆくことになったわけだ。
ノート20140216