病院
「おはようございます」
俺は舞韻に起こされた。
こうやって舞韻に起こされるのはこれが初めてではないような気がする。
話では俺は彼女と5年間一緒に暮らしていたので、きっとこういうことは毎日のことだったのだろうが。
顔を洗い、突っ張った顔が気持ち悪く、本能的に鏡の裏のボックスから化粧水の瓶を出すと叩くように顔に馴染ませ、着替えをしてリビングに行くとブラウスの上にエプロンをかけた燈梨が朝食の準備をしていた。
「今朝は私が作ったんだよ」
「ありがとう」
と、返したところで新聞を持った舞韻が入ってきた。
舞韻はテレビをつけてニュース番組にチャンネルを合わせると、3人でテーブルを囲んで朝食を取った。
不意に燈梨が
「コンさんって朝はご飯派?パン派?どっちだったの?」
「私と暮らしてた時は、私が作ってたからどちらもあったけど、1人で暮らしてからは面倒臭がってパン食べてたり、たまにお店に降りてきて『パンの買い置き無くなっちゃって』とか言って朝のメニュー頼んでいったりしてた系」
「じゃあご飯でもいいんだね」
「ギリギリまで寝てようとするから、その日の出る時間を聞いておかないとダメなのよ」
俺は毎日担当店舗に直行しているようで、日によって家を出る時間がまちまちのようなのでそういう答えになったんだろう。
朝食を終えると準備をして表に置いてある舞韻の車の助手席に乗って出発した。
俺は車に乗ると無意識に天井にある縦長のスイッチの前端を押した。
すると“ウィン”と短めのモーター音が聞こえた。
「何?今の音」
と、燈梨が言って、隣の舞韻が驚いたように
「オーナー……今の行動は?」
と、訊いてくるので
「いや、無意識のうちに……」
と、言うと舞韻が
「この車、元々オーナーが乗っていた車なんです。帰国してすぐ新車購入しました。ただ、サファリが完成したので私が譲り受けた系ですが、オーナーは何時も乗るとすぐにサンルーフをチルトさせて換気しながら運転する習慣があったんです。それを覚えているとは……不思議系ですね」
と、言って天井にあるシェードをスライドさせるとそこには大きなガラスルーフがあり、後端が持ち上がって開いていた。
「コンさんの車だったんだ。……だからギア入れて動かすタイプなんだ」
「……と、いうより戦場では普通。故障因子が少なく、悪路走破性に優れる系だから」
燈梨と舞韻のやり取りを聞いて、1つ分かったのは俺は戦場で育ち、それゆえマニュアル車にしか乗らないという事だ。
車はとある総合病院へと到着した。
車を降りると舞韻について入ったが、一般の方ではなく地下階へと降りて行って1つのドアを開けた先にあるロビーで椅子に座って待つことになった。
……俺は舞韻に
「ここは?」
「裏世界にいる人間が診察を受けるところです。銃撃されたり、切り付けられた場合、一般の病院に行くと警察沙汰になって都合が悪いですよね。かと言って、もぐりの医者に診てもらっても設備が揃ってなくてロクな治療ができない。だからギルドが作った裏稼業専門の病院なんです。でも、表向きは一般の患者も受け入れている普通の病院で、このフロアがそのエリアなんです」
直後にモニターに番号が表示され、舞韻が
「行きましょう」
と、言って立ち上がった。
数時間後、帰りの車の中で俺は自分の診断結果について反芻していた。
俺の記憶喪失は1つ目は、外傷性のものではない。
つまりは、頭を打ったとかではなく内的要因だということだ。
そして2つ目は、その原因は過度なストレスを受けたことによって、防衛本能としてその出来事を忘れたいと思うあまりすべてを忘れたということ。
3つ目は覚悟していたことだが、記憶は明日戻るかもしれないし、一生戻らないままということもあるので長い目で見ていくしかないと、いうものだった。
分かっていた答えではあったが、すんなり受け入れられるほど軽い答えでもなかった。
俺は努めて何も感じていないように振る舞い、何を食べたか分からない昼食を食べて家に戻ると、仕事の内容について整理したいと言って部屋に1人で籠った。
……今だけは1人になりたかった。
※※※
私は、舞韻さんと一緒にお店にいた。
コンさんが1人でいたいというので2階に行く訳にもいかないので舞韻さんと2人で明日の仕込みの手伝いをしたり、お店のメニューを考えたりしていた。
このお店はモーニングとランチのわずかな時間を除くとカフェの要素が強くなるお店だと感じたので、そこの流行りを逃さないラインナップにした方が良いということ、また、スイーツにも力を入れた方が客数アップにつながると思うという考えを素直に言ってみた。
今日のお昼に食べたお店の料理は個人的にとても美味しかったので何かヒントになるのではないか?という感想などについても話してみた。
私は、この近くに学校はないかと訊いてみると高校までなら近辺にあるとのことだったので、やはりスイーツ系や流行りの飲み物を採り入れると、外観と合わせて結構女子高生を含めた若い女子のお客が増えると思うと言うと、舞韻さんが
「へぇ~そうなのか、私、女子高生の経験ないからその辺の感覚が分からない系」
と、感心していた。
……なるほど、舞韻さんの話を聞くにその年代の頃の話がすっぽり抜けて海外での傭兵生活の話になっているので、そうではないかとは思っていたが、彼女には日本での普通の生活が、こと10代の一番楽しい時期において無いのだ。私は、今後の話題に注意すると共に彼女のその頃についての興味が怖いながらも湧いてきたのを感じたのだ。
しばらくお店の話をしていたが、不意に舞韻さんが
「話が変わって悪いんだけど、あの日のことについて少し確認させて欲しい系」
と、言ってきた。私は頷くと
「あの日、オーナーってライフル以外に何か武器を持ってなかった?
「ううん。私、持ち物は全部確認したと思うけど、あれ以外はなかったよ」
と、言うと舞韻さんは考え込むような表情になり
「おかしいなぁ」
「オーナーは平時も拳銃を2丁持っていたのよ。もちろん、プロだから見えないようにね。だけど、見当たらないのよ。本人に聞いても持ってないって言うし」
と、言った。
私はしれっとそんなことを言う舞韻さんも怖いが、コンさんもやはりその世界の人間だったんだと思い知らされた。
……ただ、昨夜思い出した謎の人影の件といい、コンさんの銃が消えた件といい、あの夜、確かに何かが起こったのは間違いないようだ。
※※※
……部屋に籠ってから1時間が経過した。
俺は、時計に目をやるとくよくよと考えることはやめることにしようと決めた。
……恐らく俺1人ならここから徹底的にくよくよと悩んでしまうだろうが、今は燈梨という社会的な厄介者を拾ってきてしまった。
彼女の前で悩んではいられない。皮肉なことではあるが、燈梨がいることによって俺自身が壊れそうになる精神をしっかりと保っていられるのだ。
俺は部屋を出ると1階に降りて、店に入った。
2人はこちらを見て一様にどうしたらいいものか……という反応を見せたため、俺は
「考えてもなるようにしかならないから、くよくよ考えるのはやめにした。舞韻、これからも過去の事について色々聞くかもしれないが、済まないがその時は教えてやって欲しい」
と、言って2人を安心させようとした。舞韻は
「はい。任せといてください」
と、明るく振舞ってくれた。俺は、燈梨に笑いながら
「まぁ、こんな感じだからさ、お前も変に気を遣うことなく気楽にやってくれよ」
と、言うと燈梨は笑っているのか困っているのか分からない表情で
「うん……」
と、言った。
3人で夕食を取り、舞韻は帰って行った。
風呂の準備をしていると、燈梨が
「コンさん、明日から仕事でしょ。私も、明日から家事を本格的にやるね」
と、言って布団の準備をしていた。
やはり、寝る場所は俺の部屋だった。幸い、部屋に余裕もあるようなので片付けようかと、思っていたが、燈梨が
「私の部屋はいらないよ。私の部屋があると私がいつまでもいて帰れなくなっちゃうじゃん。コンさん、それでいいの?」
と、聞かれてそれも一理あると思い、それはやめたのだ。
すると、燈梨が
「それに、またコンさんが夜中にうなされて目を覚ました時、1人だと心細いんじゃない?」
と、俺の心を見透かしたように言ってきたので
「まぁな……」
と、答えた。
以前の俺はどうかは分からないが、昨夜のような悪夢にうなされて目覚めるととても不安で心細いのだ。
燈梨に何かできるわけでもないのだが、誰かがいるのといないのとでは違う。これは確かだ。
この日もこれまで通り女子高生と隣り合って寝るという傍から見ると異様な光景で眠りについた。