麦わらの決意
「あのね、私、学校に行きたい。いや、学校に行かせてください!」
燈梨の口から出たのは、俺がずっと懸念に思っていた懸案だった。
ある程度の骨子を舞韻や沙織と打ち合わせてはいたが、いつ、どのタイミングで燈梨に投げかけるか……というところで、俺はそのタイミングを計りかねていたところだった。
下手に押しつけがましく言うと、燈梨の反発を招いて、『出て行け』と、遠回しに言っていると取られかねないので、どうしたものかと、考えていたところだった事を、燈梨の口からお願いしてきたのだ。
「いいよ」
俺は、反射的に答えていた。
燈梨は、意外そうな表情で、俺を見ていたが
「ありがと。やっぱりコンさんは……」
と、言いかけてやめた。
恐らく、優しいね……と、でも言おうとしたんだろう。俺が全力で否定するのを知っているのでやめたんだろう。
「でもね……勝手言ってホントに悪いんだけど、北海道には帰りたくないんだ。だからさ……」
燈梨が言葉に詰まったので、俺は言った。
「燈梨、よく言ったな。1年遅れになるが、高校生活は、とても大事なんだ。この年代にできた友達は、その後もずっとつき合う友達になるし、この時期の体験は、その後の人生に大きくかかわってくるんだ。……俺は、高校時代が無いから言ってもアレなんだけどな……」
そして、考えた。
この後の部分は、重要になるのだが、そこを細々言っても仕方ないと思い、その後の言葉を飲み込んで
「俺も、実家に戻るのには反対だ。あそこにこのまま戻るんなら、燈梨の今までの時間は何だったんだ?って事になるし、学校に行っても、ちっとも楽しくないと思うからな。だから……」
と、続けた。そして
「家からでも良いし、燈梨の好きなところから近くの学校に通えば良いと思う。そのためなら、俺達は何でもするぞ!だから、堂々と鷹宮燈梨として、学校に通うんだ」
と、言うと、燈梨は真っ赤な目をして俺に抱きついてきた。
「コンさん、ホントにありがと。やっぱりコンさんは、ホントに優しいね」
と、また言うので、俺は
「俺は優しくなんてない。ただ、そうした方が良いと、俺が思ったことを勝手に羅列して言ってるだけだ」
と、燈梨を引きはがしながら言ったが、燈梨は、それでも俺に抱きついてきて
「ほんとに、本当に、ありがと!」
と、言って、俺の方を見上げていた。
俺達は、それから、互いに見つめ合っては、言葉が出ない状態をしばらく続けた。
その状態が続いた後で、帰ることにした。
帰り道で、スーパーと、ホームセンターが入ったショッピングモールに寄って、明日必要になる物を色々と買って行った。
カップ麺は、燈梨の希望を訊いて反映させようとしたが、燈梨はシンプルなものを選んだため、今までと同じ物になった。
俺が口を尖らせていると、燈梨は
「だって、保存食でしょ?変に凝ったもの買うよりも、お湯だけ入れてさっと出来るシンプルさが良いし、それに、昼にコンさんと食べた普通の味のやつはとっても美味しかったし」
と、ニコッとして言った。
別荘に戻る道すがらで、燈梨は言った。
「どこで学校に行くかは、まだ決めてない。ゴメン、もう少しだけ考えさせてもらって良い?」
「ああ、夏が終わるまでは短いようで、まだ時間はたっぷりある。ゆっくり遊びながら考えよう」
燈梨が、ここまでの決断に至るには、相当の勇気が必要だったはずだ。
彼女のここまでの人生が破綻した原因の1つは、クラスから孤立させられて一人ぼっちで過ごし、彼にストーカーされたという壮絶な学生生活にもある訳なので、本来なら、このまま逃げ続けてタイムオーバーを狙ってもいい訳だ。
燈梨は、そこまで打算的に、この家出生活を続けているわけではないが、そういう方法論もある。
なので、俺は、彼女には、少なくとも俺のところにいる間だけは、過去の煩わしい出来事を忘れて、楽しく過ごして欲しいと思うのだ。
ここに来るまでは、家にいても地獄、逃げ出しても、する事もなく、兵糧攻めにされて帰ることを強要され、その後は、自由な時間と引き換えに、身体を差し出す苦痛を味わうという地獄しかない生活だったのだ。
だからこそ、俺は、彼女の今後の人生が、今までの不幸の分を取り返して余りあるほどの、楽しくて幸せなものにしてやりたいと思うのだ。
燈梨自身の希望は訊いた。
やはり家に帰って、元通りの高校に通うことは考えていない……いや、考えられないのだろう。それはそうだ、あんな出来事があった場所に1年遅れで、おめおめと戻って来たところで、クラスからは浮き、噂が飛び交い、好奇の目で見られる生活しか待っていない。
正直、そんな学生生活は、まっぴらごめんであるし、こんなのでは、俺が燈梨に力説した高校生活の重要性と、楽しさなど皆無の、地獄の責め苦の日々である。
そして、外での嫌な出来事を癒すための家庭は、もっと地獄の様相を呈している。
精神年齢未就学児で、情緒不安定を理由にモラハラ働き放題の母親と四六時中、顔を突き合わせていて、学校以外での外出は禁じられているので息の抜きようもない。
たまにやって来る兄は、心配だと言いながら、心配しているのは自分の世間体で、燈梨の苦しみを理解するフリをして、母親の怒りの矛先が自分に向かないように、燈梨を人身御供として家から出ないように縛り付けている。
彼が心配なのは、燈梨ではなく、母親からのモラハラに耐えかねた燈梨が、公的機関に駆け込んだり、母親と暴力沙汰になった結果、騒ぎになって傷つく自分と、自分の会社の世間体だけなのだ。
こんな家庭には戻したくないし、沙織や、ドリ郎が目の色を変えてこの件に関わるのも無理は無いと思う。
ドリ郎は、あまり直接的には口に出さないが、燈梨の兄の事を侮蔑している。
同じ境遇にいた際に、妹のために、約束されていた将来も、今の満たされた生活もすべて捨てて、坂戸の築30年のアパートに暮らし、ぼろいパオに乗って、バイト三昧で暮らすことをも厭わずに、“兄”でいることを選んだドリ郎に対して、燈梨の兄は、父親の会社を継いだ自分の立場を守るために、燈梨を見捨てて“社長”でいることを選び、その結果、不幸になった妹を探そうともしないその不誠実さを、同じ兄として、そして、同じように父親から世襲で事業を受け継ぐはずだった総帥としての両方の立場から許せないと思っている。
燈梨は、俺のところに来て、素直に笑うようになってきた。
当初の頃は、どうにも作った笑顔を常に浮かべていて、正直、不快であったが、今は嫌な事には嫌な顔もするが、その分、素直に笑う事が出来るようになってきた。
俺は、その燈梨の素直な笑顔を見ると、何故かこう胸から沸き立つ炎のような、みなぎる力のようなものが湧いてきて、燈梨の笑顔を守りたい、いつもこの笑顔を見ていたいと思うのだ。
それが、実家に帰れば確実に消えてなくなる。
俺は別としても、燈梨のあの笑顔が消えてなくなり、また不幸な生活に戻って、作り笑いを浮かべるような娘に戻ってしまうことだけは、俺が何としてでも全力で阻止しなければならない。
そのための1つとして、今後も、鷹宮燈梨としての彼女でいられるようにしていくよう動いていく。
一番簡単に、あの家族の目をくらますには、全く違った戸籍を用意して、偽名で新たなスタートを切らせることだが、燈梨は、家を飛び出したことに罪悪感をまだ持っており、この方法を使うと、自分のことを、全てから逃げ出した卑怯者だと感じて、一生自嘲した人生を送ってしまうだろう。
なので、俺は敢えて面倒な方法ではあるが、燈梨の家族と闘う事を決意した。
彼女の尊厳と、今後の人生を守るためには、潰すべき時が、今まさに来たと思う。
兄に関しては、別方向から、ドリ郎が違ったアプローチで潰しにかかっているので、同タイミングでいければ、それに越したことは無いな……とも、思っている。
俺は、燈梨のため、そして、ドリ郎は、妹を捨てた兄に鉄槌を下すため、違ったアプローチでありながら、燈梨の未来のためという共通の利害に向かって同じ敵に立ち向かっていく事になる。
その時、燈梨はどう思うのだろう……と、思って助手席を見ると、燈梨は麦わら帽をかぶったまま、寝息を立てていた。
それを見て俺は思った。「負けない」と。
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