サリーが言ってた
木枠の硝子窓がビリビリっと鳴って、その後すぐに部屋全体がブルっと震えた。
腰の下の方から、床のもっと下の方から突き上げるような振動だ。
僕は上半身を起して毛布に両足を埋めたまま、窓に視線を向けた。
暗闇に目が慣れるまで、しばらくかかった。
片手で目ヤニをぐりぐりと擦りながら、今の地響きみたいなものが、現実だったのか、夢の中の出来事だったのか、ベッドの上でぼんやりとしていた。
もう一度、何が起きたのかこのまま寝てしまおうか、虚ろな頭の中で巡らせていた。
歪みのある薄い板硝子の向こうは、黒色インクが波打つように暗黒の揺らぎがあった。
所々、蛍火のようにフワフワとする小さな光は、寝静まったはずの街の残り火だ。
うつろいで揺らいでいるのは、あくびと一緒に眼にたまった涙のせいだ。
少し経って、おぼろげな意識の中、これは夢だと確信した。
レンガと木造の三階建てからなるボロアパートのくせに、上の階や下の階からも騒ぎが聞こえず、まったくの静寂に建物や街が沈み込んでいたからだ。
それでいて、チカチカとした街や家屋の灯は変わることなくそのままだった。
僕は床に落ちかけた毛布を引き寄せ、埃を舞いあがらせるぐらいの勢いでベッドに倒れ込んだ。
横向きに枕に落ちた片方の耳はまだ静寂を探っていた。
それでも、聞こえるは路地に入りこんだ野良猫の独り言と、縁にひっかかったゴミ箱の蓋がやっと落ちた音。
「ああ、夢でよかった」僕は口先でその野良猫のようにポツリと呟いて、どんどんまどろみの井戸底へ落ちて行った。
あぁ、このまま落ちていたい、なんて考えたり。
コツンと窓の板硝子に何やら当て付ける音がした。
最初、夢の中で焚き火の薪が割れるようなイメージだったが、どうやら夢じゃなさそうだ。
「やれやれ」と再び身体を起こし、窓を見やった。
コツンと今度はもう少し大きめの音がした。
「ああ、サリーか」
小石を投げ付けて合図する、いつものやつだ。
僕は室内のランプに灯を点して、その明るみで階下を窓から見下ろした。
闇夜に紛れ、一階の植え込みの中で、もぞもぞと動く影がある。
小さな女の子サリーは、片手の平に余るレンガを掴んで、今まさに投げようと構えていた。
「割れちゃうよ」
僕は声をころしつつ、手で口に輪を作り言った。
「はやく降りてきて!」
サリーも真似るように声を抑え、レンガを地べたに放った。
僕は頭に寝癖をつけてアパートの中庭まで降りた。
「オスカー、さっきの気づいた?」
サリーは手をパンパンとはたき泥を落としながら言った。
「ああ、夢かと思ったよ」
僕は手にしていた作業帽子をクイッと寝癖を隠すように被った。
サリーは近所に住む小さな女の子だ。
瞳の輪郭はアーモンドみたいで、でもつぶらでいて、青みがかっている。
闇夜であれば髪は漆黒だが、昼は緑がかって見える。
ソバカスがちょっぴり目立つ白い肌は、チュベローズのごとくだ。
「そのうち硝子が割れてしまうよ、サリー」
僕は当たり前のようにサリーの手を握り、サリーもグッと握り返した。
「だってオスカー起きないんだもの」
僕らは手を繋いだままアパートの鉄扉を押して、闇夜の街へ歩き出した。
「気づいた?」と言うのは、もちろん小石の音ではなく、あの地響きのことだ。
「すごい揺れたよね。オスカーまだ寝ぼけてる?」
サリーは言いながらタラタラと歩く僕を急かすように少し手を引いた。
舗装されていない歩道にはたまに小石があり、闇夜であればそれにつまずきそうだ。
僕は自身の足元を確認しながらも、サリーの早足の先も見るようにしていた。
「わたしたちしか気づいてないみたい」
サリーは街並みをキョロキョロとしながら。
確かにあんな地鳴りがしたにも関わらず、家々はひっそりとしている。
無論深夜であるし、僕のように起こされることがなければ寝入っている人が殆どであろう。
ただ、時折部屋の明かりがカーテンから漏れた窓もあり、全ての家が眠りに落ちていたとは思えなかった。
日中であれば街は喧騒に溢れ、商店や飲食店の主人や客で賑わう通りだ。
子供の泣き声一つで「なんだどうした」とお節介をするような雰囲気もある。
深夜とは言え、なんだか薄ら不気味でもあった。
「ところで今夜はどこへ行くの?サリー」
もちろん大体は検討がつく。
さっきのあの振動が起きた場所を探りたいのだろう。
サリーは何かあるとすぐに僕のアパートを訪れさっきの様相だ。
以前も、と言うか頻繁ではあるのだが、街の中心部にある小高い丘にある大木に雷が落ちた時も、わざわざその破壊された様を見ようと誘われた。
あるいは、街外れの港に無人の漂着船があれば、その船の中を見てみたいとも誘われた。
「たかがそんな事で」ではあるのだが、サリーはまだ小さく、昼間のうちに大人達に混ざって見るようなことが出来なかった。
無理に見物しようものなら「子供が見るもんじゃない」とか「危ないから」などと窘められてしまうのだった。
サリーは僕と同じ労働者の両親を持つ。
父は炭鉱夫であり、母親は普段は通りで露天商を営んでいる。
もちろん二人ともサリーを愛しているし、常に目をかけている。
ただ、街の人々全体に共通しているのだが、常にやつれ疲労感で陰鬱な雰囲気だ。
街の賑わいもそれを誤魔化すようで、なんだか虚しい。
ただ、ただいつも悲しそうなのだ。
炭鉱は昼夜関係なく稼働している。
しかし、昨今は上手くいっていない。
僕が生まれるずっと以前は景気もよく皆活気に溢れていたと聞くが、最近は皆口々に「ここももう終いだ」と言うようになった。
一人暮らしをする僕も炭鉱での手伝いをしてはいるが、連日通して勤務することはほぼ無くなっていた。
今は僕の両親の昔からの知り合いと言うことで小さなサリーを面倒を見つつ、たまに食事に呼ばれたり、その家族にお世話になっている感じだ。
「あの丘なら何か見えるかもね」
サリーが指差す先は、例の雷が落ちた丘だ。
歩道は緩やかな上り坂となり、その先は少しだけ小高くなっていた。
闇夜にこんもりと突き出た丘の先端には、落雷により煤け、葉が殆ど落ちきったポプラの木のシルエットがあった。
随分前のことなのに、朽ちかけたポプラからは煤の臭いがまだ放たれているようだ。
閉じた暖炉や炭鉱窟の奥から漂う、微かに寂しい臭いだ。
そして、群青よりも濃い闇夜の高みには、あまりに近く手が届きそうな満月があった。
満月は幾重にも淡い黄色の輪郭を放ち、まるで何か電波のようなエコーを鳴らしているかの如く、輝き、響いていた。
地鳴りの原因なんてものが、丘の上から見渡したところで分かるはずもないと僕は思い込んでいたが、サリーの驚いた声でそれは間違いだと気付いた。
闇夜に垂れた群青のカーテンに、虫食い穴のようにある月からの光線と、漂う煤の臭い。
丘から見やる、そのうんと向こうの地平には信じられないないものがあった。
「クジラ!」
サリーは瞳をキラキラさせながらも、その表情は驚きに満ちていた。
僕らが丘から見下ろす先には、まだ遥かに街が続き、昼間ではそのさらに先にある港が確認できた。
しかし、今は見えない。
港街そのものが見えなくなっていた。
かわりに、そこには巨大なクジラが一頭佇んでいたのだ。
正確にはシロナガスクジラだ。
そして、その大きさは家何軒分などと言うレベルではなかった。
港やそこから見える海を覆い隠してしまう程の巨大さだ。
つまり、街一つ分程の大きさだった。
「クジラだよね?ね?」
サリーは僕の手をさらにギュッとしながら叫んだ。
そう、クジラだ。
僕だって昔に絵本で見たことしかない。でも、いくら地上最大の哺乳類だとしても、こんなのは聞いた事もない。
港街をすっぽり覆い、頭を西側に尾ひれを東に向け微動だにしない。
闇夜と巨大なクジラの落とす影により、港の街が無くなっているように見えたが、それは違っていて、街はあった。
その沿岸に沿って街程もあるクジラが停泊して寄せているといった風だ。
ピクリとも動かないと見てとれたが、そもそもこんなものがバタバタと動いたら、津波で港街どころか僕らが住む炭鉱街が波にのまれてしまう。
「もっと近くで見たい、オスカー」
言うと思った。
サリーはアーモンド型の瞳を輝かせ、その奥は群青と漆黒のグラデーション。虹彩にポツリとある輝きは、あの月光だ。
彼女は僕の手を握り、早く行こうと急かした。
僕は衝動的にはなれなかった。
街全体を覆うような影を落とす巨大なシロナガスクジラもとっくに異常なのだが、こんなものがあるのに街の人々は誰一人ドアや窓を開けて見ようともしないのだ。
あまりに静寂すぎる。
この夜はいつもと違う夜なのだ。
もしかしたら、もしかしたら、ここでの選択で何かが狂ってしまうかもしれない。
しかし、サリーの欲求に抗うことはできない。
僕が怯えて一人で帰っても、彼女は単独で向かってしまうだろう。
誰か大人を呼べば尚更強制的に帰らされるが、いずれはまたこの夜を繰り返す。
彼女にとってチャンスは今だけなのだ。
そう考えると、これはそうなるべきしてなった夜なのかもしれない。
「こわいことがあるかもしれないよ?」
何を脅そうとしているのか分からないが、僕はサリーに念を押した。
「こわいこと?あーんな大きなクジラがいるのに、こわいことなんかあるわけないわ」
サリーはもう踏み出そうとしている。
「それにオスカーがいれば何がおきてもへいきよ」
僕は「うん」と言って、逆にサリーの手を引いて港街に影を落とす巨大なクジラを目指した。
近づけば近づくほどに、その巨体は圧巻だ。
丘を下りて港街へ続く道を足早に進むと、丘から見下ろしていた全体像はその輪郭が捉えにくくなっていた。
つまりは巨大過ぎて白い壁が道の先にあるように見えるのだ。
「疲れていないかい?」
僕はサリーの手を少し強く引いているのでないかと思い聞いた。
「うん!へいき!だいじょうぶ」
サリーは息を切らして途切れ途切れだったが、握る手を緩めることはしなかった。
街の通りはやはり静寂を保ったままだった。
ひとっこひとりいないとはこの事だ。
それに港では当たり前に居る野良猫すら眠ってしまっているようだった。
道中サリーは「さわったらどんな感じかしら」とか「ペタペタするのかなあ」など、息も切れ切れに喋り続けていた。
そんなお喋りの最中も、僕は手当たり次第に家のドアを叩いて誰かしら呼び出そうか、なんて衝動にもかられたが、やはりサリーの事を思うと出来ないでいた。
闇夜に照らす月明かりが、家々の軒先に立てかけられた釣竿や漁網の影を伸ばしている。
気付けば港街らしく、漁業に使われる道具や資材が各々の玄関先に雑然と置かれていたりしている。
微かだが、魚の匂いだろう生臭さが漂い始めていた。
暫くして、僕らは歩みを一旦止め、通りの真ん中で小休止した。
サリーもさすがに両手を膝について息を整えていた。
「もう上の方も見えないよ」
僕は背中が反るほどに見上げた。
シロナガスクジラの巨体はもはや白い壁となり、その巨体の背にあたる部分は薄ぼやけて見えない。
ということは、今僕らの目の前にある壁はクジラの腹か胸ビレ辺りだろうか。
それでも、その巨体の一部に、直に触れるまでにはもう少し距離があった。
「サリー行けるかい?」
僕は中腰に彼女の顔を覗く。
「だいじょうぶ。はやくいきたい!」
サリーは自身のくるぶしまである短い靴下を引っ張りながら身を起こした。
僕らが、さぁ行こうと手を取り合った瞬間、背後から地べたを踏みしめる音がした。
振り向くと、そこには暗がりでも目が痛くなるくらいに映えた、真黄色のレインコートを着た大人の男がいた。
背丈は僕なんかよりうんと高く、街の炭鉱夫よりももっとノッポだった。
レインコートのフードを目深にかぶり、暗闇だと鼻と口元しか見えなかった。
また、その尖った顎周りに蓄えた無精髭で女性ではないのだと察した。
「クジラに会いにきたのかね」
まるで大聖堂に響く青銅の大鐘のような声だった。
僕は一瞬「しまった大人に見つかってしまった」と言う焦りで、なんでもない風に装う言葉を飲み込んでしまった。
「あなただれ?」
サリーは当たり前に、なんでもない風に聞いた。
「私は灯台守だよ、お嬢さん」
黄色いレインコートの男はポツリと、だが重く、夜のしじまに咲くように答えた。
「とうだいもりー?」
サリーが聞き返して、僕の中でも「灯台守」の意味を考えようとしていた。
「今夜は一人か」
灯台守はフードの中から呟いた。
港街であるし、沖の岩礁域に灯台があることも知っていた。
当然、灯台の管理人もいるだろう。
ただ、こんな風に目の前で会ったのは初めてだし、なにより「こんな夜に」だった。
「こ、今晩は。僕はオスカー。この娘はサリーです」
僕はサリーの調子に合わせるように、冷静であろうと取り繕った。
「クジラはもうすぐだよ」
灯台守はこんな夜中に子供が二人でいるのに意に関せずと言った風だった。
「あの、さっき言った〝今夜は一人か〟と言うのは...それに〝クジラに会いに〟っていったい...」
大人だから何でも知っているなんて思いはしない。
でも、灯台守はこれっぽっちも驚いたり動揺しているようには見えなかったので、何か知っていると咄嗟に思ったのだ。
しかし、灯台守はそれには答えてくれなかった。
僕は影で見えないでいる瞳を探るようにまじまじと見つめたが、彼はそれにも無関心で僕らを越して先へ進んだ。
さも「ついておいで」と言わんばかりの背中だった。
無論僕らは向かっていたし、いずれクジラの壁みたいな身体を触りたいと思っている。
ただ「こんな夜中に出歩くな」とか「早く帰れ」などと大人らしい事を言うわけでもない、妙な安心感みたいなものはあった。
それと同時に、少しも動じることなく、こんな巨大な「クジラに会いに」ってのは、間違い無くなんらかの事情を知っているわけだ。
ノッポの黄色いレインコートの背中を見つめながら、僕らは先程よりだいぶ落ち着いて歩いた。
逆に「僕らはぼくらで向かいます」なんて言ってもいいのだが、あの壁に向かうのに他所の道なんかただの遠回りだし、一緒に行かない理由も無かった。
「わぁ...」
サリーは僕の手を離し、レインコートの男を追い越した。
ここまでくると、もはや白鯨の全体像なんてわかる筈もなく、天まで届きそうな白い壁が、さらに目の前に広がった。
港街を抜け、石畳みで舗装された道に変わる頃、そこは波止場になっていた。
漁船は一隻も見当たらず、代わりに巨大な白鯨が波止場に寄せてあるような感じだ。
寄せてあると言うものの、あまりに大き過ぎて、波止場を含めた沿岸に沿って白い壁があるような。
できるなら宙を舞い、うんと高い所から俯瞰で見てみたい。
で、なければ突然ここにいたら、誰がこの壁を白鯨、シロナガスクジラだと思うだろうか。
「つめたーい」
サリーは何の躊躇もなく、その白鯨の壁というか身体をペタペタと叩いていた。
まるで大理石の支柱のような、硬質でいて詰まった音だ。
それでいて哺乳類の皮膚であるように、おうとつや皺がある。
それら横に伸びる皺も、沿岸に沿って彼方が見えなくなる程に遠い。
「オスカー見てこれー」
サリーは僕を手招きし「ここ、ここ」と指をさした。
砂漠で朽ちた動物の骨の様な白色だ。
その無垢なる巨体の壁を、僕はグイっと確かめた。
「ね、かいがらがある」
サリーは人差し指だった手を平にして、その部分を優しく撫でた。
骨色の壁にはアンモナイトや三葉虫の化石が散見され、皺の層によって種類も様々だった。
遠目で見れば、皺の一本一本に見えたが、僕らが今見ているそれは、型押しされたケーキの模様のようだった。
「何万年も、何十万年も昔から生きているからね」
灯台守は静かに僕らに近付きながら話した。
「それはもう人々の考えが及ぶような年月ではないんだよ」
レインコートのフードを外し、灯台守は目の前の白鯨の壁を見上げた。
落ち窪んだまなこは疲れて困憊しているようにも見えたが、その瞳はしっかりと闇夜に滲む先を見つめていた。
「彼は合図でもあるし、船でもあるし、この世界の意味でもあるんだ」
灯台守はやつれた頬を緩ませることなく、硬い表情で上げていたこうべ戻し右側に向けた。
その視線の先にはいつの間にかタラップが現れていた。
大型客船が乗客を迎え入れるよう備え付けた金属製の階段だった。
白鯨の身体に取り付けられたタラップは、僕らがいる地べたから少し浮かせた高さに一段目が始まり、そこからうんと先まで階段が伸びていた。
その距離は相当なもので、先端は暗闇に消えて見えない。
「え?」
僕が何かを言いかけようとした間際に、サリーはそのタラップに足をかけ、同時に「カンッ」と靴が金属の段を鳴らした。
「いこうよーオスカー」
サリーは振り向きながら既に2段目3段目と登り始めた。
「上まで?凄い高いよ。大丈夫かい?」
金属製の階段は一直線に伸びて、その先が見えない。あの先に居る頃には相当な高さだ。心配したのは高さもあるけど、こんなクジラの身体に付いた階段を登って何があるというのか。
「へーき。オスカー一緒に来てよ」
サリーは早く早くと、今にも駄々をこねそうだ。
僕は深く呼吸を整えて、一歩を1段目にのせた。
振り向けば、灯台守も背後にいた。
君が行くのを待っているよ、とした具合だ。
こんなものに上がって大丈夫なのだろうかと不安で仕方がないが、灯台守の存在が何故か見守られているような気がして、極端な恐れは無かった。
カン、カン、カン、カン...。
三人が踏み込む度に、足元から金属音が鳴る。
サリーが少し先に急ぎ足で登るので、その音はリズミカルとは言えなかった。
白鯨の身体に対し外側にあるタラップの手摺りは冷たく、握る手がかじかんでしまいそうだ。
錆と塗料剥げで、触り心地は良いとは言えない。
たまに手を鼻先にもっていけば、濃い潮と錆の匂いがした。
さすがのサリーも、階段中途の踊り場でへたり込んでしまった。
もうだいぶ長く登り続けていた。
まるで登山をしているかのごとく、俯向いて足元しか見なくなっていた。
添える程度に触れていた手摺りも、体重をしっかりかけるほどに当てにしていた。
へたり込むサリーの側まで登りきると、僕も白鯨の壁によりかかり呼吸を整えた。
続けて灯台守も上がってきたが、まるで疲れている様子ではなかった。
さもすれば、僕らを置いてさっさと登って行ってしまう程に無表情だ。
僕は肩を少しばかり上下させつつ、手摺り側へ近付いた。
見下ろせば僕らのいた波止場はもう見えなくなっていた。
下る階段は暗闇にのまれ、どんなに目を凝らしてもその先は見えなかった。
対して周辺は微かに街の灯火の点在が確認できた。
その灯火も、僕らのいる高度と暗闇にかすれて消えそうだ。
まるで波打つ漆黒にポツリポツリとある灯篭ごとくだ。
見上げる鉄階段も同じように先が見えない。
煌々とある月明かりで、ようやく互いの顔や姿が見えるくらい。
あのポツポツとある街明かりが見えなくなり、これで雲が月を霞ませてしまったら、まったくの暗黒だ。
僕は今になって部屋にあったランタンを何故に持って来なかったのか後悔した。
「ここで夜明けを見るより、上で見たいよね?」
僕はへたり込むサリーを前にして、背を向けてしゃがんだ。
「うん」
サリーは僕の首に腕を回して、ひょいとしがみ付いた。
まるで鳥や子犬のように軽い。
僕は特別力むことなく、スクっと立ち上がり段に足をかけた。
休んだせいだろうか、何故かしらサリーを背負っているにもかかわらず、足取りが軽い。むしろ、先よりも元気に脚が上がる。
僕が段を進む度に、サリーの息が「ふっふっ」と耳元にかかる。
サリーの唇が耳たぶに触れそうでくすぐったい。
いくらサリーが軽いとは言え、摩擦が緩く度々ズリ落ちる。その都度僕は立ち止まり、背負いを直し三度上がり続ける。
その単調な繰り返しのせいか、サリーは「すー、すー」と寝息をたて始めた。
チラリと振り向けば、暗闇に紛れそうな灯台守が後ろをついて、あるいは見守るように追ってくる。
休息以前より、だいぶ上がって来たと思う。
階下も港街の灯火も見えない。
家々の影が、ゴツゴツとしたレンガを敷き詰めた真っ黒な海のように見える。
おそらくかなり高い所まで来たと思うが、それを客観的に見ることが出来ないので尚更不安になってくる。
いつまで上がり続けるのだろう。この手摺り柵の向こうは、もう雲の上とか星よりも高いのではと考えを巡らせてしまう。
ただ、群青のカーテンにある月光の輪郭に変化はなく、遠くにも近くでもなくそこにいたままだった。
「あ、あの」
不安からか僕は灯台守に声をかけた。
よくわからないけど、終点のようなものがあるのか?いつまで続くのか?
それを察したのか、たまたまなのか、灯台守は僕の言葉を遮るように、僕の立つ先より向こうを指差した。
その指した先にはぼんやりとした、橙色の光が見えた。
その明かりは周辺の階段や手摺りを照らし、さらに目を凝らすと、その向こうには階段が無かった。
自身の足元ばかりを見ていたせいとは言い難い、気付かないわけがないのだが、その輝きはいつの間にか灯されていた。
白鯨の壁に吊るされたランタンの光だ。
漁船備え付けのランタンは、家庭用のランプより少し大きく、多少の衝撃では壊れないようガラス周りが鉄枠で補強されている。
金属製のタラップ同様、普段からこのシロナガスクジラの身体にくっ付いているのかは分からない。
ただ、ボルトやら釘やらで打ち込まれいる様には見受けられず、どちらかと言うと生えている感じだ。
ランタンから発する橙色の光は柔らかく、暗闇に慣れていた僕らにも優しかった。
「朝?」
僕の背中で寝入っていたサリーもその光に気が付いて、僕の背中からスルリと離れ自身の両脚で立った。
「頂上みたいだよ」
僕はサリーに言うようなフリをして、灯台守を見やった。
何となく彼の指図を待っているような自分にも気付いた。
「わあ、ひろーい」
ランタンに照らされた階段の踊り場に、今まで真っ直ぐ上がってきた段とは別の左側に折れた踏み場があった。
さらには2段程のステップがあり、サリーはそれを踏み越えると大きく両の手を広げた。
僕も追うように踏み越え、それを跨ぐと咄嗟に腕で顔を覆った。
眩しさに目を細め、思わず声が出た。
「わっ」
まるで塩田の様に広がる平面は、群青にぽっかりとある月からのエコーを捉え、その輝きを平面全体に反射させた。
白鯨の背にあたるそこは、月の光を吸収しているようにも見え、その都度さらに反射を繰り返しているように見えた。
波止場のある地上から今までの宵闇が嘘のように、陽炎をゆらす夏の畦道のごとくだ。
月明かりを昼間のように反射し続ける白鯨の背中は、街の一つでも入ってしまいそうな広さだ。
当然僕らが上がってきたタラップは、その背中のうんと端っこにあり、そこから見渡せば、対岸は地平線のように遠い。
「あっちがしっぽなのかしら」
サリーははしゃいで輝く平地を駆けた。
漆黒だった髪はなびいて、月明かりの強い照り返しで緑にも青にも見えた。
サリーが駆けて向かわんとした先は、きっと尾ビレの方向だ。
僅かに傾斜があり、そちらはだんだんと先細って見える。
ただ、それもあまりに広すぎて「細く」とは言えない。
靴先で感じる白鯨の背は、普段の地面のようでいて、少し柔らかな気がした。
まだ時季ではない、硬い柑橘類の皮を敷き詰めたような、それでいて内側は石のような。
サリーがその平地でジャンプしても何も音がせず、勿論僕らは会話ができているのだが、何故か無音の海の中にいるような感覚になった。
「さあ、いこう」
今まで黙していた灯台守のレインコートは、反射でさらにキラキラと眩しかった。
なんだかじっとしていられないサリーは僕の元に駆け寄り、勢いでつんのめた。
「ここは...このクジラは何ですか?」
僕はずっと我慢していたことを、やっと聞くことができた。
そのうち分かると言うような雰囲気の中でここまで来たが、どうにも不可解が過ぎた。
それに、サリーにも分かりやすく教えてあげないといけない気がしたのだ。
「何も知らないのかい?彼女から聞いていないのかい?」
たぶんサリーに聞かせたくなかったのか、灯台守は僕に近づいて少し屈む様に言った。
「何がですか?知らないことも僕は知らないんです」
僕は灯台守に合わせるように小声になってしまった。
サリーはなんともない風に僕の手を握ってくれている。
「そうか...」
そう言うと灯台守は再び黙ってしまった。
ただ、彼はゆっくりと踵を返すと、僕らを案内するように尾ビレとは真逆の、おそらく頭の方へと歩き出した。
先と同じように、付いて来いと言わんばかりだ。
まるで常夏の砂浜を歩いているようだ。
もちろん砂や降り注ぐ太陽光も無いのだが、昼間のように明るいクジラの背を連れ立って歩く僕らは、なんだか海水浴に来た家族みたいだ。
また、月の反射で輝く背中と、群青の夜空の境界がやっとここは地上のそれではないんだと気づかせてくれる。
しばらく灯台守の後を追っていると、彼方にポツリと何かがあるのに気付いた。
サリーも気付いて僕の腕を引っ張りながら凝視していた。
歩みを進めるうちに、それが鐘楼であるのが見てとれた。
ただ、高さは灯台守より少し高いくらいの、鐘楼と呼ぶにはだいぶ小ぶりだ。
どちらかと言うと小屋のようだ。
レンガ造りでいて、可愛い小屋のようで構造は頑丈そうだ。
半円の麦わら帽子のような板葺き造りの屋根をのせ、アーチ型の間口が四方にあった。
中にはサリーがすっぽり収まってしまいそうな大きな釣り鐘があった。
緑に酸化が進み、青銅製であるのがわかった。
その釣り鐘を鳴らす為であろう、ロープが鐘の中から垂れている。
「わたし鳴らしたーい」
サリーが垂れたロープに触れようとしたので、咄嗟に僕は「いけないよ」とさえぎった。
「鳴らす時刻とか、大切なお知らせとか、わからないけど、決まりがあるにちがいないよ」
僕は灯台守を見上げ「ですよね?」と言うふうに求めた。
「私と彼女はここでお別れしないとならないよ」
灯台守はポツリと発した。
サリーが僕の手をギュっと握りしめた。
僕は言葉にならずに、口をポカンとしていたが、暫くしてようやく言葉が出た。
「あの、どこへ」
灯台守はよくわからない大人だ。
突然僕らの前に現れ、わけもわからないままにここまで一緒だった。
でも「私と彼女は」ってどう言うことなんだろう。
「サリーは仲良しなんです。一緒に帰ります!」
僕は今までに無い調子で言い放った。
サリーの手を掴んだまま、その場を離れようとした。
サリーの手を引いて、このなんだかわからない空間から遠のいてしまおうとしたけれど、それはならなかった。
「だめぇ!オスカー!」
サリーは僕の腕を両手で掴まえて、今までに無い力で引き止めた。
サリーは訴える様に僕を見上げる。
アーモンド形の瞳は潤んでいるように見え、深い群青は月の照り返しで夏の海のように輝いている。
「サリーは何処かへ行ってしまうのかい?」
僕は向き直り、サリーの瞳からもうちょっとしたらこぼれ落ちそうなドロップに気付いた。
この突然の訳の分からない別れに、僕は大人の灯台守に聞かないとならなかった。
「病院とか、遠くの学校とか、そう言うことなんでしょうか?」
灯台守はそれを遮るように片手を伸ばし、白鯨の背中が途切れる地平の彼方を指した。
その指の先には今まで気付かなかった、規則的に明滅する光があった。
白色蛍光のレンズで拡大された、ビームを放っている。
灯台の光だ。
「私はね、あそこで常に見守っているんだ。知らせが来るのをね。前は難破船だったり、雷だったり。その度に迎えに行くのだよ。私はただそれだけの役割りなんだ。ただ見て、案内をするだけなんだ」
灯台守は淡々と、ゆっくりと、静かに語った。
灯台の光が明滅を続ける。
「さあ、彼とお別れをしないとね」
灯台守はサリーの背中をそっと撫でる。
サリーはいったん何かを飲み込むようにしてから僕を見つめた。
「うんとまえから、なんども迎えにきたけどダメだったわ。今家にいる人たちはもうほとんどいないの。灯りがついているおうちも、もうすぐいなくなる。オスカーひとりぼっちになっちゃうわ」
僕はここから見えもしないのに、街の方を振り向いた。
白鯨の背中と闇夜の地平があるだけで、あの街は見えやしなかった。
「サリー、行ってほしくないんだ」
僕はサリーの頬に手を触れた。
ソバカスを浮かせた白い肌は夜風で冷たい。
サリーは僕の温もりを、愛おしそうに自分の手を添えて確かめた。
「ちがうの、行くのはオスカーよ」
白鯨の背中が、足元がビリビリと震えたのを感じた。
大きなうねりの様なものが、靴底よりもっと下のうんと下、シロナガスクジラの内側から起こっているような振動だ。
「え、僕が?」
振動は足元を伝い、肩や瞳を震わせる程に。
鐘楼の板葺き屋根がカタカタと鳴る。
「うん。わたしはオスカーをおこしにきたの。なんども、なんども、おこしにきて。もうあきらめようかと思ったけど、こんどが最後かもしれないの」
話しながらも振動は激しさを増した。
「鳴らすね」
サリーはそう言うと、青銅の鐘から吊るされたロープを引いた。
白鯨からの振動と共鳴するかのように鐘は大きく振られ、宵闇と月光からなるエコーに重低音がコーラスする。
サリーは体重いっぱいにロープを引き下げ、また反動で飛び上がりそうに。
その度に、重くずんとした鐘の音は宇宙と月光の間に響いた。
しじまに響く鐘の音を合図としたように、白鯨はグラリと動き出した。
僕は咄嗟にサリーを捉え、鐘楼のアーチにしがみ付いた。
「こわがらないで」
サリーは僕の耳元で囁いた。
「僕は、僕はどこへ行くんだい?サリーはどうして一緒じゃないんだ?」
シロナガスクジラはその巨体を僅かにくねらせたと思うと、僕の身体全体に重力がかかるような、胃袋が浮くような感覚になった。
同時にシロナガスクジラが上へ上へと上昇して行くのを感じた。
気付けば灯台守がいない。
あの黄色いレインコートが、視界にも反応せずに消えていた。
「あ、あの人は?」
振動は徐々に収まり、鐘の残響と共に落ち着きを取り戻した。
「あのひとは元のお仕事にもどったとおもう。あの灯台にもどって、また見守りつづけるんだわ。そして、これからもなんども私やオスカーみたいなひとを見つけて、こうするんだわ」
サリーはアーチに片手を添えて僕を見つめた。
「オスカー。夜があけて、あなたはもとの所に帰るの。ながいながいお休みからおきるの」
灯台の明滅がかすれかかっている。
そのビームを射す彼方は、群青の宵闇が待ちわびた陽の光で霞みを成していた。
巨大なシロナガスクジラはぐんぐんと上昇していた。
クレーターまで見えてしまいそうなくらい近かった月は、なんだか小さくなっているようだ。
僕はサリーの家族とか、いつかの街の賑わいや炭鉱の事を思い出していた。
「オスカー。もう、ここでの物語はおしまいよ」
サリーは再び僕の手を握り、呆然とする僕を「こっち見て」と促した。
「あの人たちも、炭鉱も、野良猫だって、もう街にはいないわ。みんな待っていただけなの。私みたいなお迎えを」
あれだけ煌々としていた月は、もはやその輪郭を失いかけていた。
灯台の半身は陽の光に包まれ、明滅は既に無い。
白鯨の巨大な身体は月光からの反射より、太陽光のそれで三度輝きを増していた。
「僕は、サリーと一緒に行けないの?」
サリーは頷いた。
「でもね、聞いて」
サリーは言った。
「私はきっかけでしかないの。起きたらね、全部忘れているかもしれないけど、でも、これだけはどうか覚えていてほしい。
なにがあっても、ちゃんと、ちゃんと生きてね。
大好きよオスカー......」
サリーは僕の額にキスをした。
白鯨は陽射しに包まれ、もっともっと上昇しているようだった。
僕はサリーの唇の余韻を額に感じながら、目蓋を閉じていた。
眠るとは違う、陽射しのカーテンに潜り込むような、朗らかな安堵と静寂の温もりだ。
僕はシロナガスクジラが太陽の光波を受けて宇宙に彷徨い出す様を、その目蓋の中で感じた。
「サリー。ありがとう...」
光は波となって、その温もりと共鳴する。
全てがぼんやりとしていた意味が分かったようで、でも、それすら遠いと思い込んでいた、あの灯台の瞬きにしか過ぎない。
光はそこに。
僕は上半身を起して毛布に両足を埋めたまま、窓に視線を向けた。
高層ビルや高架や、そこ行き交う自動車が、まるでおもちゃのようだ。
ボンヤリとしながら、あんな所に沢山の人々がいるなんて信じられないと、ただ視線を向けていた。
僕は腕にまとわり付く点滴からの管を気にしながら、片手で目ヤニをぐりぐりと擦った。
簡素な肌着みたいのがはだけ、とてもだらし無く感じながらも、僕は窓から見えるビル郡を眺めていた。
ノックがした。
ドアノブが回り、開けきる前にその声の主が何やら挨拶をした。
あぁ、僕はこの声が誰だか知っている。
知っているとも。
おわり