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狼の詩  作者: ゆうなぎ
少年編
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第九話

 『自分が鳥だったら、そう、渡り鳥だったらいいのに』

 空を見上げるたび、小鳥を見かけるたび、優はそんなことを思う。

 彼はほとんど毎日、鳥や空や自由のことについて考える少年だった。もし、自分が鳥だったら、わざわざ今日みたいに改めて決意するまでもなく、どこまでも飛んでいける。バスも電車も、自転車さえもいらない。自分の翼だけで空を駆けることができるのだ。

 優は鳥たちのそういうところに憧れていた。いや、鳥に限った話ではない。ほとんどの動物が生まれながらに持っている性質、すなわち、どこまでも自分の力で生を全うする力強さ、これこそが自分に最も欠けているものだと考えていた。その最も身近な例は、本の中に存在するオオカミ王ロボだったが、彼は最近、日々の自然観察と読書によってその最たる例を見つけ出していた。

 太陽だ。

 太陽こそ自らの力で燃え続け、その光を他の生物に分け与えている偉大な存在だった。そして、自己完結しながら永い時を生き続ける、偉大な生命だった。叶うことなら太陽になりたかったが、それはあまりに分を超えた願いであり、真剣に願うことすらもできない。優は人間に生まれたのだ。

 『せめて自分の道を歩きたい。こうすべきだとか、こうした方がいいってみんなが言っているような道じゃなくて』

 そう願うのがせいぜいだった。だが、どうしたら良いのか、何をすれば自分の道を歩くことになるのか、結局は分からないままだ。

 『でも、もしかすると、この一週間で何かが変わるかもしれない』

 その予兆を感じていた。

 予兆を現実のものとするために、彼は進まねばならなかった。

 電車で旅をすると決めたのは、ぼうっと歩き続けて三十分ほど経った頃だった。歩いているうちに、自分が知らず知らずのうちに駅に近づいていることに気が付いたのだ。駅まではさらに三十分ほど歩かねばならなかったが、優にとってひとりで歩くことは苦でもなんでもなく、むしろ楽しいことだった。彼は持ってきていたウォークマンに入っているクラシック音楽で耳を楽しませ、田舎特有の豊かな自然と澄み切った空気によって目と鼻を楽しませた。

 誰にも会わなかった。

 世界で生きているのは自分ひとりではないかと錯覚するほど、誰にも会わずに広い道を歩いている。このとき、優は初めて、部屋の中で得られている心の平静を、部屋の外でも感じていることに気が付いた。外に居ても、ひとりにはなれるのだ。きっと、ここに何人かの人がいても、耳をふさいでいる優の世界には入ることができないだろう。

 いや、待てよ、と、彼は考える。

 「ひとりってどういうことなんだ?」

 今まで自分はひとりだと思っていた。それは今も変わらない。ひとりであることに誇りすら感じている。

 けれども、ひとりというものには色々とあるらしい。

 と、そのことに思い当たる。

 友人に囲まれていながらも孤独である人、逆に誰にも囲まれていなくても孤独でない人がいる。世界は現実だけではできていない。目に見えるものだけでもできていない。現実に人に囲まれているからと言って、それは単純に「友人が多い、だから幸せ」を意味しないのだ。

 「ぼくはほんとうにひとりだろうか?」ひとりごとが続く。

 確かに、友人らしい友人もおらず、家族ともどこか距離を置いている優はひとりなのかもしれない。けれども、いま自分がこうしてどこかに行こうとしている理由を考えてみれば、それは間違いなく中上先生が彼のなかに生きているからである。

 中上先生だけではない。ロボや同じ時間を生きたシートンのように書物によって関わった者がいる。現実には会っていなくても、こころのなかで生きている者がいる。そういう存在を意識したとき、自分はほんとうにひとりだと言えるのか、いや、言ってしまって良いのか。そんな疑問が優のなかに浮かんだ。すると、これまで考えていた「ひとりとそうでない状態の境目」が、急に薄れていくのが感じられた。ひとりかどうかなんてことはさして重要でないようにも思われた。誰がひとりかそうでないかなんて、結局は本人が決めることでしかないのだから。

 すると、さらに別の疑問が優を襲う。

 「分からない。ロボのように生きたいと願うのは、いったいどうすることなんだろう。今、誰かに会いたいと願っているのはどうしてなんだろう」

 何に対しても答えが出せない自分がいた。

 頭の中で考え続けても答えは出ないのかもしれない。世界は現実だけでは成り立っていない。それと同じように、非現実だけでも成り立っていない。今は目の前の現実に向き合うときだった。

 疑問を振り払うと、ふと、中上先生との会話が思い出された。

 「君はそのまま悩み、迷い続けなければならないと思う」

 「どうしてですか?」と、あの時は問い返さなかった。

 どうして、そこまでして生きなくちゃならないのか、分からなくなりそうだった。

 自分であること、自分であろうとすることが先生の示した希望だとして、それがなかなか見えてこない上に、仮に見えてきたとしても、それがどうしようもなく醜かったなら?もう生きていることが奇妙に思われるではないか。

 何に対しても答えが出せないまま進むのは苦しいことだった。

 しかし、時は止まることがない。彼はすべての事物をその力の渦のなかに巻きこみ、生成と消滅を永遠に繰り返させる。 ある人間が何かをなして死ぬのか、あるいは何もなさずに死ぬのか、それは彼の知ったことではない。

 「あ、終わってる」

 優がウォークマンの画面を見ると、いつの間にか一枚のアルバムが流れ終えていた。

 『ラフマニノフ、ピアノ交響曲第二番』

 優と彼の母が大好きな曲だったが、全く耳に入ってこなかった。

 しかも、顔を上げると目的の駅はすぐそこに見えていた。駅は茶色の煉瓦造りの建物で、正面に白文字で駅名が書いている。早速、優は券売機の方へ歩いていった。それから田舎特有の単純で見やすい路線図をぼうっと見上げる。

 行き先はどこでも良かった。

 『とにかくここへ戻ってくれば良いいんだから』

 優は、今日が旅の初日であることも踏まえ、往復料金が千円以内で行くことのできる駅まで行くことに決めた。

 ホームで電車を待っている間、優はリュックから一冊の本を取り出した。それはある人物の詩集で、誰かからもらったのか、優の部屋に昔からあったものだった。けれども、これまで一度も読もうとしなかったし、外へ持ち出したこともなかった。自分が詩なんてものを理解できるとは思えなかったし、詩独特のあの情感のこもった文章を読むのに僅かな恥ずかしさがあったからだ。 それをなぜ、今日という日に手に取ったのか。この頃、優は、自分の行動や考えの意味が分からなくなっていた。

 それでも持ってきた以上は読まなければいけないような気がした。これもひとつの出会いであり、会うべくして会ったのであろうから。

 『人生とは孤独であることだ』

 と、偶然開いたページに書かれていた。

 『誰も他の人を知らない。みんなひとりぼっちだ』と詩は続く。

 『人生とは孤独であること?』

 さっきまで考えていたことが、こうして本の中にあらわれるのは不思議なことだった。しかし、その短い詩句を完全に理解するのは困難であるように思われた。理解するのに足りないのはいったい何だろう、と頭を悩ませているうちに電車がやってきて、優はそれにぼうっとしながら乗った。

 電車やバスに限った話ではなく、人混みが苦手な優は、そういう場所に行くと無意識に耳をふさぐ癖がある。音楽で、だ。ここに来るまでにごちゃごちゃになった頭を、思考の無秩序な流れを止めたかった。音楽という完成された世界を感じて、微笑みたかった。四六時中音楽を聴く優にとって、それは半ば安定剤のようになっていたのかもしれない。

 空いていた窓際の席に座り、無限に続くかのように思われる田園風景を音楽で色づけしながら喜んでいると、ひとりの老婦人が目の前に座ってきた。彼女は、優と目が合うと、にこやかに会釈し「こんにちは」と挨拶した、ように思われた。彼はすぐさまイヤホンを外し、「こ、こんにちは」と戸惑ったように返した。そして、彼女には失礼かもしれないが、どうして今ここに座るんだと少しだけ怒りを覚えた。

 『いまいいところだったのに』

 「ごめんなさいね」と、老婦人は少年の心を見透かしたように言った。

 「音楽、聴いていたのに」

 「いえ、いいんです」と、優はそっけなく答えた。

 「ねえ、あなたひとり?」

 「ええ」

 「どこかに行くの?」

 「分かりません、ただ、どこかに行きたくて」

 「そう。私はね、息子に会いに行くの」

 そんなことはどうでも良かった。早くぼくの世界を返してくれ、と少年は願った。しかし、それを表に出せず、ついつい良い恰好をしてしまうのが彼の悪い癖なのだ。

 「息子さんですか」

 「ええ、もう六十になるわ。久しぶりに会うのよ」

 「久しぶり? 親子なのに?」

 それを聴くと、老婦人はふふっと小さく親しげに笑い、しわの多い、細く青白い腕を口元にやりながら、

 「あなた、まだご両親から離れたことないのねぇ。もっと大人に見えたのよ。ごめんなさいね、笑ったりして」と言った。

 不思議と悪い気はしなかった。というより、親しみのような感情を彼女の仕草や声の調子から感じた。

 「いえ、いいんです。これが初めての一人旅なんです」

 「そうなのね。私の息子の話をしていいかしら?」

 「もちろん、ぼくでよければ」

 「ありがとう。年を取るといやねぇ、お喋りになっちゃうから」

 と、にこやかに話す様子を見ると、やはり親しみがわいた。彼女の格好が、落ち着いた青系統の服でまとめられていたからかもしれない。

 「私の息子はね、十八の時、大学進学のために遠くへ行ったの。それから、あっちで就職、結婚して、家まで建てて、なかなか会えなくなったわ。私も年をとって、昔みたいにあちこちいけなくなったし」

 「へえ、昔はよくどこかへ行っていたんですか?」

 「私ね、山に登るのがとっても好きで、若い時はよく登ったわ。それで山からいろんなものを拾ってくるから、お母さんによく怒られたわね。山菜とかも拾ってくるから、それは有り難がられたのだけれどねぇ。おかしいでしょ、ふふっ」

 そう話す彼女は少女のようにも見えた。確かに老いてはいたが、彼女はかつて少女で、時間とともに生きてきたという当たり前のことが、優には直感的に理解できた。それで、彼女のこれまで人生のことに少しだけ興味がわいたのだった。そして、よりよい人生を送った人とはこういう人なんだと、つまり、愛と朗らかさに満ちて生きてきたのだ、と根拠のないことを考えた。

 「今まで、楽しかったですか」

 「そりゃいろいろありましたよ。こんなに生きられるなんて思いもしなかったわ。私の若いころは戦争があってね、女学校のときの同級生は空襲でみんな亡くなっているの。だから卒業アルバムを見ると、悲しくなるわね。この子も死んだ、あの子も死んだってね。毎日、空襲が終わって防空壕から出ると、あら、無事でしたわね、これが挨拶なの。でも、何とか生き延びて、みんなから可愛がってもらって、良くしてもらって、ありがたい、幸せな人生だったと思うわ」

 「ぼくにとって戦争の話は教科書の世界にあることです。だから、それに対しては何も言えないのですけど、でも、そうやって幸せだった、とこころから言えるのは素敵なことだと思います。ほんとうにうらやましく思います」

 「あなたはまだまだこれからよ。私の孫より若そうだもの」

 「でもね」と、優はおばあさんに親しげに訴えた。

 「ぼくは怖いんです、おばあさん。進むのが、怖いんです」

 「どうして?」

 「数か月前、ぼくの恩師が亡くなりました。けれども、ぼくは、ぼくにとって唯一の理解者であったかもしれない先生を失っても悲しくないのです。悲しむべきはずなのに、涙が出ないのです。こんな冷たい心を持っている自分が、ぼくは恐ろしい。このまま生きていたくないと思うのです。だって、不幸が待っているにちがいないもの。愛がないってことなんだから」

 「私ね、ここまで生きてきて、まったく必要のない時間ってなかったと思うの。時間の無駄、とか言うでしょ。ああいうのね。どんなに苦しくて、辛い時間も、こうしていまの幸せにつながっているような気がするから。ね、幸せってね、幸せじゃない時間があるから、そう感じられるんだわ。だから、笑いなさい。どんなことがあっても、できる限り笑って受け入れなさい」

 おばあさんは優の瞳をまっすぐ見据えて、聖母のような笑顔でそう言った。

 「そうしたら、光が見えてくるわ。あなたの人生を温かく包む光が」

 「そ、そんなこと」と、優はおびえながら言葉をもらす。

 「そんなこと、ぼくにできるとは思えません」

 「いまはそうかもしれない。でも、いつかできるかもしれない。そう信じて進むしかないような気がするの。でなきゃ、生きることは苦しいだけでしょ。さあ、これでもお食べなさい。飴ちゃんよ」

と、おばあさんは黒いくたびれた鞄から、黒糖飴を取り出し、優に差し出した。

 「飴っておいしいわよね。さあさあ、お食べなさい」

 「はい…」と、少年は包みを開き、飴を口の中へと放り込んだ。

 食べなれない、奇妙な味が舌の上を広がっていく。

 甘い、と思った。甘すぎるような気さえした。けれども、こんな甘さも時には必要かもしれない、と彼は考えた。おばあさんが最後に話してくれたことは、偶然か必然か、中上先生が話してくれたことと似ていた。

 『自分を責めるだけじゃ、不安に思うだけじゃ、何も始まらない。でも、ぼくはちゃんとした答えが欲しいんだ。ぼくがぼくでいいのかってことに対する答えが。それはいけないことなのかな。おかしいことなのかな』

 優は降りた先の駅のベンチで、お茶を片手にそうつぶやいた。

 そして、優よりも遠くへ向かう息子想いのおばあさんの優しい雰囲気と言葉を、憧れと親しみをこめて思い出した。

 優の小さな旅は静けさとともに過ぎていった。

 旅の中で多くの人とすれ違った。が、彼はやはりひとりで、気付くと、いつも喧騒とは無縁の場所を歩いているのだった。

 それでも、はじめて知ることはたくさんあった。こんなに小さな旅であっても、驚きや感動は無数にあった。

 そこら中に茶畑がある土地へ行った。

 見知らぬ寺社の境内を何時間もさまよった。

 ときにはこぢんまりした喫茶店で甘すぎるカフェオレを飲んだ。

幸運にも話す機会に恵まれた人とは可能な限り話した。

 これらの経験は、少なからず優のこころを豊かにしたが、しかし、彼が深いところで欲していたものを得ることはできなかった。いずれも経験したことを素直に喜ぶことのできる瞬間ではあったが、こころの奥までを揺さぶるものではなかった。それに出会ったのは運命であったのだと確信できる出来事はなかった。

 いまの優の手が届く範囲にある現実が、自分のこころを一段階でも先へ進ませるものでなかったことを、優は心底残念に思った。

 『何かが欲しかった。夢でも良かったのに』

 ため息が次々とあふれ、自分のいる部屋が水でいっぱいになっているような息苦しさを覚えた。

 ただ、両親や妹を前にしては、いつもの自分をくずさないように努めた。

 毎日、誰かから「今日はどうだった?」と尋ねられる。

 「うん、良かったよ」

 毎回そういう風に答えた。少し笑いながら。

 もちろん、そのままでは味気ないので、そこに〝行った場所〟や〝食べたもの〟などのスパイスを加える。それだけで、彼の家族はそれ以上深入りしないようになるのだ。

 それは優にとって必須の作業だった。

 旅の中で感じた、ある種の不満や苦しさを見透かされないようにしなければ、家族との間に余計な問答が繰り返されるかもしれない。仮に暗い顔をしていて、

 「どうしたの、旅は楽しくないの?」

 とでも、誰かから質問されたら面倒なことになる。

 特に彼の母にそう質問されたら大変だ。お金やピアノのことを絡めて、優の旅を痛烈に批判するに違いないからだ。それは恐怖なのではなく、単に面倒だった。

 言いたくないことを言わないように。

 自分は大丈夫だと、何も問題ないのだと、周囲に主張するために。

 自分の笑顔の盾はきちんと使わなければならない。

 気付いた時からそう生きてきた。事実、それで問題はなかった。

 問題があるとすれば、自分と世界がぶつからないことに、少しだけ張り合いのなさを感じている優自身のこころの揺れ、それだけだった。

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