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狼の詩  作者: ゆうなぎ
少年編
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第八話

 冬が深まりつつあった。

 冬休みが近付き、クリスマスやお正月をどう過ごすかで賑わうクラスメイトをよそに、優はどこか遠くへ行きたいという思いを強めていた。

 黒澤家では、毎年クリスマス大会なるものが行われる。

 内容は普通のクリスマス会とさして変わらないのだが、母・美江の命名でそうなったのである。優も、もちろん参加しなければならない。だが、冬休みは短く、彼の気持ちは遠くにあった。

 もし、どこかへ行きたいと言っても、母は優の願いを許してはくれないだろう。そんなことは分かりきっていた。

 こういう時、優はいつも母と揉めないように、自分の意見を抑えるようにしてきた。母が何を気に入り、何を嫌う人なのか、優はもう数年も前にはだいたい理解していた。だから、今回も余計なことはせず、年末の行事を楽しく過ごすのが一番であるように思われた。

 『もう面倒なんだ、もめるのさえも』

 けれども、日に日に気持ちは強まり、もう冬休みまでの学校生活でさえも逃げ出したくなりそうだった。

 『みんなから逃げ出して、どこか遠く、どこか遠くへ』

 冬休みの初日、クリスマスイブを翌日に控えた二十三日の朝、優は食卓につくなり両親にこう切り出した。

 「ねえ、今日から、どこかに出かけていいかな。三日くらいでいいから」

 「何しに行くのよ」不機嫌そうに母が言う。噓のつけない優は返答に窮したが、

 「まあいいだろう」と、父・慶郎が助け舟を出してくれた。

 「いつも何も欲しがらない優が珍しいじゃないか」

 「でも、ひとりなんて」

 「そうだな、優、どこへ行きたいんだ。何なら車で送ろうか?」

 「分からない」

 「どこへ行きたいのかわからないのか」

 「うん、でも、どこかに行きたい。できれば、ひとりで」

 「優、なんか変よ」と、母が言うと、

 「どうしたの、お兄ちゃん」咲も心配してくる。

 決心の理由について、優は何も言うつもりはなかった。もしも、あまりに強硬に反対するのなら、夜にでも家を抜け出してやろうと考えていたくらいだった。

 「分かった」と、トーストにマーガリンを塗りおえた父が小さな声で言った。

 「クリスマスプレゼントだ、優。一万円、お父さんが出そう。好きなところへ行って、それから帰ってきなさい。冬休みの間なら、三日と言わず、五日でも、十日でも良い」

 「パパ!」美江が信じられないと言うような表情で叫ぶ。

 「ただし、条件がある」

 「毎日、朝に出たら、夜にはちゃんと帰ってきなさい。危険には巻きこまれないように。優なら分かるね。危険な場所、危険な人が」

 「うん、分かるよ。ありがとう」

 勝手に話を進める夫に観念したのか、美江は首を振りながらこう言った。

 「せっかくのクリスマスが台無しね。とにかく、帰ったら必ずピアノの練習をしなさい。十分でも十五分でもしないと、三日分腕が落ちるから」

 怒りが顔ににじみ出ていた。優は母の言葉を聞きながら、胸のまんなかに締め付けられるような痛みを感じた。

 「宿題もちゃんとしなさい。お母さんに恥はかかせないで」

 そして、食器を乱暴に扱いながら朝食を平らげると、そのままピアノの部屋に向かった。そうして静かになった食卓で、慶郎がふたたび口を開いた。

 「母さんはお前が心配なんだ」

 「分かってるよ」

 「優、お前は昔から物分かりがいいし、手のかからない子だったよ。でも、お前は何か父さんたちには分からないことを内に秘めている気がする。だから、父さんはお前の願いを許した。分かるね」

 「うん」と、優がうなずくと、

 「お父さん、お兄ちゃんは変なんだよ」と、咲が茶化した。

 「はは、そうだな」と、慶郎が眼鏡の位置を直しながら言う。

 「何かあったのか、何もないのか、何か思うところがあるのか、ないのか、父さんには分からない。だが、いつか話してほしい」

 「うん、いつか話すよ。ごめん」

 と立ち上がり、シンクに自分の食器を持っていってきちんと洗ったあと、彼は二階の自分の部屋へと向かった。旅の準備をしなければならなかった。短い旅、小さな旅だが、初めての旅だった。

 「さて、どうしよう」と、優は自分の部屋を見渡した。

 『とりあえず、リュックが要る。それから、父さんのくれたお金とそれを入れる財布。ウォークマンと鍵、これで三種の神器はそろった。それから』

 数冊の文庫本、非常用の倉庫から拝借したペットボトルのお茶、ハンカチ代わりのタオル(優にはハンカチを持つ習慣がなかった。それに時計も。時計の代わりはウォークマンが務めてくれる)、などを次々とリュックに入れていく。ここまでして、優はこれ以上何も持っていく必要がないことに気が付いた。

 『どうせ夜には戻ってくるんだし』

 服装には少しだけ気を使った。とにかく寒いのは嫌なので、防風素材の服を上下そろえて着用した。

 『手袋も防風っと。それから、なんだっけ、そうイヤーマフ。耳が寒いのは特に嫌だからね。靴下は分厚いのにしないと』

 正直、あまり格好の良い服装ではなかったが、旅なのだからそれで良かった。何よりもこれからどこへ行くのだろうと考えるのは楽しかった。

 最後に忘れものがないか確認した後、リュックを背負い、一階へと降りた優を迎えたのは、今しがた食事を終えた妹、咲だった。

 「お兄ちゃん、お母さんがこれを持っていきなさいって」

 と、手渡されたのは、紙袋に入った何かだった。

 「昨日焼いたんだって、お昼ごはんに食べなさいって」

 「パン?」

 「そう。まあ、とにかく気を付けてって。お土産よろしくね」

 「分かったよ、ありがとう」

 こうした些細な会話すべてが、いま自分が幸福であることを感じさせてくれる。

 どこか遠くへ旅立つというとき、帰る場所があるのは幸福だった。

 帰ったとき、出迎えて、抱擁してくれる人がいるのは幸福だった。

 だが、優がいま求めているものは、そんな幸福のなかには、身近な温かさのなかには存在しなかった。求めている何かのために、彼は家族さえもいないところで独りにならなければならなかった。

 どこか遠くへ、見知らぬ場所へ。

 こころのなかでそう呟いて、少年は家を出た。

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