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狼の詩  作者: ゆうなぎ
少年編
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第七話

 その日から、ほんとうの意味で中上先生のいない学校生活が再び始まった。

 葬儀の日から一日、また一日と過ぎていくにつれて、もう先生とは会えないのだという事実が彼のなかで不動のものになった。

 だが、想像していた以上に自然と、優は中上先生と出会う以前の学校生活に戻っていった。学業に至っては、以前よりも熱心に取り組むようになったほどだ。先生のことを考える時間はきれぎれになり、それに合わせて優のこころは安定に近づきつつあった。

 これを「安定」と呼んでも良いのか、それは定かではないにしても、少なくとも表面上はそう見えた。家でも学校でも、特に何かに身が入らないということはなかった。

 それでも優の瞳だけは、以前よりも光少なく、うつろになっていた。

 まるで機械仕掛けの人形のそれのように、あまり動かず、焦点も定かではない。

 『やっぱりぼくは中上先生のことを何とも思っちゃいなかったんだ。だから、こんなにも冷静に生きてられる』

 優はこんな風に自己否定を繰り返しながら毎日を過ごした。

 できるだけ自分の存在の意味をなくそうとした。

 『ぼくなんかは生きていても仕方ない』

 そうとまで考える時もあった。

 しかし、病的な行動とは無縁であった優は、異常に暗くなったり、自殺を考えたりすることもなかった。彼の自己否定は至極淡々と行われ、そこからは何も生まれなかった。このときの優の頭の中に否定の先はなかった。

 考える時間が増えた。

 学校や家におけるあらゆる時間が何らかの思考に支配された。

 漫画のようなくだらない内容も多かった。ひどいときは数秒ごとに思考の対象が変わり、頭がぐるぐると回るような感覚を覚えることもあった。そういう時は決まって、場所も関係なくうめいてしまう。うめいた後は、自分が誰かに見られてやしないだろうかと周りをうかがう癖もついた。

 優はさらに独りになった。

 同級生ともほとんど話さなくなり、笑顔も消えた。委員長の業務もそつなく淡々とこなすだけになった。

 『ぼくが力になりたいと望んだひとも消えてしまったじゃないか』

 優の変化に気づき悪口を言うものもいた。

 しかし、そんなことはどうでもよかった。そんなことを気にかけている時ではなかった。不思議と、そんな人間にはいじめという名の悪魔すら近づいてこない。いや、近づいてはいても気づかないのだ。結果として、いじめという状況が成立しない。

 家に帰って来ても、家族とは必要以上の会話を交わすことができなかった。

 「今日はどうだったの?」という母の質問に、

 「いつも通りだよ」と、作り笑顔で答える毎日。

 それよりも、本やゲームの世界にいる方が心地よかった。

 彼の世界は再び閉じて、もう誰も入ることができないように思われた。

 唯一入る可能性を持ったひとが、彼の世界から消えてしまったのだ。


 葬儀から一ヶ月あまりが過ぎた頃、ふと、中上先生の家族のことが思い出された。

 先生の家族はこれからどうなるのだろう。特に先生の二人の子どものことが気になった。自分と同じくらいの年齢で父を失い、それでも凛としていた兄弟のことが。

 『ぼくには父がいて、母がいて、妹がいて、ほとんど不自由なく暮らすことができている。それがありがたいこと、幸せなことだというのは、あの子たちを見るまでもなくわかっているんだ』

 中上先生に先立たれた奥さん、子どもたちをこれから待ち受ける困難を思えば、自分が感じている違和感や悩みなどは贅沢な、いわば〝不必要〟なものなのかもしれない。現実を生きることに精一杯で、それ以上悩んでいられないという人もたくさん居るだろう。悩む前に動かなければならない人もたくさん居るだろう。

 だからと言って、自分のこころにかかる〝もや〟を払うことなど出来はしなかった。

 他人と比べて自分は現実的に恵まれている。だから、もう悩むのはやめよう。

 そんなことは、やっぱりできなかった。

 いや、してはならなかった。

 『ぼくが置かれている状況、ぼくの苦しみ、それはぼくだけのものだ』

 人と比較して、悩む、悩まないを決めてはいけない。

 それぞれの人生においてそれぞれの悩みがあり、そのそれぞれの悩みこそ悩むべき価値のあるものだった。

 現実とそれに対する「自分」という関係の間にある違和感が優を悩ませた。

 何が自分のこころであり、感情であるのか、いや、そもそも、そんなにはっきりしたものがしかと存在しているのかどうかさえ、 彼にははなはだ怪しく思われた。

 中上先生と形の上でお別れをした後、彼を包み込んだ孤独とそれから生まれた思考は、その疑問を深くし、頭の奥にひっそりと住み着いた。

 『どうして、他の全く関係ない人がいなくなることよりも、先生がいなくなったってことがこんなにぼくの中から消えないのだろう』

 これがもし、父さんや母さんだったらと優は考えた。

 その時も自分は涙ひとつ流さず、まるで深い霧の中を歩くように、自分のほんとうの気持ちのありかをつきとめようとするのだろうか。 それとも、動けなくなるほどの衝撃とともに、延々と涙を流し続けるのだろうか。

 そうなってくれればいいと、と思った。

 きっと両親を愛しているからこそ、そうなるのであろうから。

 しかし、中上先生は父でも母でもなく、親友でもない。

 教師と生徒であった。

 教師と生徒であったが、たがいにとってどうでも良い、さして記憶に残らない普通の関係でもなかった。

 その微妙な距離感と優のこころに占める存在の大きさ、その比重の不安定さが優のこころを揺らし、中上先生の死を、ニュースなどで知る不特定多数の死と完全に異ならしめていた。 大きな存在が消えたことによって生まれた深い孤独は、以前のそれがさして寂しさを伴っていなかったのに比べ、強い寂しさをもって優につきまとい、彼をして、何かを探し求めるような気持ちにさせた。

 『先生はどうして亡くなったのだろう。ぼくにとって、先生を失ったことが不幸だとしたら、その不幸はどうしてぼくの身に起こったのだろう。中上先生の死が、ぼくの人生に重なったことには意味があるんじゃないか』

 彼はそんな思いを強めていた。いや、彼のこころが自然とそういう風に動いたという方がより正しいのかもしれない。

 それは彼のもっとも純粋で、どこか痛々しいこころの求めだった。 けれども、誰だって、こころの求めには従わなければならない。あのロボが、言葉ではなく生き様で教えてくれた、優にとっての真理だった。

 『だれかと話したい』

 優は急にそんなことを思いついた。

 この頃は慣れっこになってしまった、いつもの思考の揺らぎかとも思ったが、どうやらそうではないようだった。彼ははっきりと対話を求めていた。あの、恐らく、避けようがなかった悲しむべき出来事について、だれかと言葉を交わしたかった。言うまでもなく、それをできる人間というのは限られていた。

 この時、中上先生の奥さんに会いたい、という気持ちが彼のなかに芽生えたのだった。

 でも、それをできるのか、しても良いのかどうか、全く分からなかった。

 もし、その時が来たら、と優は考えた。

 『もし、その時が来たら、ぼくは何を話すのだろう』

 またもこころと現実が噛み合わない気持ち悪さを感じる優であった。

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