第六話
そうして、中上先生の葬式の日はやってきた。
優はいつもよりも制服をきちんと着こなして登校したが、教室には向わず、そのまま来客用の玄関へと向かった。そこには数人の先生がいて、落ち着かなさそうにあれこれと会話を交わしていた。その中に弔辞を一緒に作ってくれた加藤先生もいて、彼女は緊張したような優の姿をみとめると、
「おはよう。黒澤くん」と、どこか気まずそうに挨拶をした。
「おはようございます」優は無愛想ともとれる静かな声で、そう返した。
ただ、失礼のないように軽く頭を下げることは忘れなかった。
「もう準備はできているわ。行きましょうか」
「はい」
加藤先生は素早く靴を履いて、優を車へと案内した。
優はその後ろを戸惑いながら付いていく。やがて車にたどり着くと「失礼します」と小声で言って、助手席のドアを開けた。慣れない、女性らしい花のような香りが鼻についた。嫌な匂いではなかったが、好きな匂いでもなかった。この匂いの中に長い間包まれるのは苦痛だと思った。しかし、助手席に座ると、鼻はもう慣れ、次に落ち着きのない自分の胸の鼓動が意識された。
「行くわね」声とともに車は動き出した。
車の揺れのせいか、先ほどに増して落ち着かなかった。
これから自分は何をしに、どこへ向かうのだろうという分かりきったことが、きちんと理解できなかった。昨夜もろくに眠ることができず、頭もぼうっとしていたから、もう何がなんだかわからなかった。
「大丈夫?」
「はい」かろうじてそう答える。
「緊張しているのね」
目に入るのは自分の書いた弔辞の入った封筒だけで、加藤先生が優の緊張をほぐすためにかけてくれる言葉も、彼の耳にはほとんど入らなかった。だが、優は緊張しているのではなかった。
『中上先生…』 そうこころのなかで繰り返しつぶやく。
恩師に対する単純ではない想いが、胸の中で乱反射し続けていた。
しばらくすると、急に車が止まったので、優は我に返って外を見た。
左手に白く大きな建物があった。ここに先生が、と優はつぶやいた。
「黒澤くん、着いたわよ、行きましょうか」
優はうなずき、加藤先生と車を降りた。
入口の自動ドアを通り抜け、受付を済ませた後、優と加藤先生は、葬儀が行われるホールへと案内され、用意されていた座席に隣同士で座った。
「大丈夫?」と、加藤先生。
はい、と気持ちをこめてうなずく優。ここでも言葉は出なかった。
着席をしてすぐ、優はホールの右手に中上先生の妻と子どもらしき人たちを見た。
『先生には奥さんや子どもがいたんだ』
彼女たちは何とも言えない暗い表情をしながら、訪れる人々に会釈をしている。この場であっても、妻とふたりの子どもたちはどちらも凛としていた。
優は自分と同じ年くらいの子どもたちを見て、尊敬の念を抱いた。
『もしぼくが同じ境遇に立ったら、あんな風に立っていられるだろうか』
それから、三十分も経たないうちに葬儀ははじまった。
ただ、どのように人々が動き、葬儀が進められていったのかは、よく分からなかった。開式の言葉や僧侶が読経する声は聞こえてきたが、ずっとうつむいていた優には状況がつかめなかったのだ。
そして、ついに優が弔辞を読む番になった。紹介を受けた後、加藤先生に小声で声をかけられて(何と言ってくれたのかは覚えていない)我に返った優は、ぶるぶると震えながら立ち上がり、冷たい指に紙を握りしめ、マイクの方へと近づいていった。そこで、かろうじて遺族の方に礼をすると、紙を少しずつ、少しずつ、ひらいていった。
『あ…』マイクの下に中上先生の姿が見えた。
色とりどりの花のなかに身を横たえ、眠っているかのような中上先生の姿が。
今、ここで、彼の肩をゆすれば応えてくれそうなほど顔色は良かったが、しかし、彼はすでに〝中上先生〟ではないように、優には感じられた。顔もからだも間違いなく、先生のそれであったが、そこには温かいこころとその顕れたる微笑とが失われていた。
そう気が付いて、泣きそうになった。
なにか大きなものを失ったように、胸のまんなかがズキズキと痛んだ。
だが、優は自分を振るい立たせた。
この場に立っているのは、ただ泣くためではない。たとえ、自分のこころのすべてがうつし出されたものではないにしても、自らがつむいだ言葉によって先生を送り出さねばならなかった。
それから自分が何を読んだのか、不思議と優は覚えていない。
気が付くと、葬儀は終わり、先生の眠る棺が会場の外へと運ばれているのを見ていた。とはいえ、何かとてつもない失敗をしたわけではなさそうだったから、あの紙切れがあったのは幸運だった。
ただ、すべてが記憶にないわけでもなかった。
「みんな、中上先生のことが、大好きでした」
という言葉の直後に、自分が泣き出したこと、そして、席に戻ってきてから、加藤先生が優の肩を軽く抱きながら「頑張ったわね」と言ってくれたことだけは覚えていた。やがて優の涙はとまったが、胸のなかの違和感は、葬儀が終わったあともしばらく残った。
会場をあとにした二人は、車で再び学校に戻ることになった。
『家に帰りたい』優は小さくため息をつく。
『こんな気分で授業なんて受けても何ひとつ身にならないだろうに』
しかし、それよりも信じられないことが、教室に戻った優に強いられることになった。
「感想をみんなの前で言ってくれるかな?」
と、担任の柴田は言ったのだった。
感想だって!
思わず叫びそうになった。感想などを求めてよいものではなかった。
例えば、夫を亡くした妻に対し「最愛の人を失って、どんな気分ですか?」と尋ねるようなものだからだ。優は怒りと失望とを柴田に対して覚えた。けれども、それを表に出さず、なるだけ早く席に着けるように、とにかく一言だけ、当たり障りのない言葉を一言だけ絞り出した。
「亡くなっているとは、とても思えませんでした。眠っているようで」