第五話
それから二日後の火曜日、いつものように学校に到着した優を待ち受けていたのは、まったく予想もしない知らせだった。
朝のホームルームの前のことだった。
『生徒の皆さんにお知らせします』
という、校内放送の最初の決まり文句を聞いたとき、優は、背筋に悪寒が走るのを感じた。明確な理由はなかった。校内の様子もいつもと変わらないように思われた。だが、その先を聞きたくない、耳をふさぎたい、ここから逃げ出したい、というような衝動が、胸の奥からふつふつと湧きあがってくるのを、優ははっきりと感じた。
「国語科の中上先生が、昨夜の未明に急に倒れられ、病院に搬送された後、お亡くなりになりました。くも膜下出血と診断されたそうです。くも膜下…」
わっ、と教室がざわついた。
放送はくも膜下出血の説明を続けていたが、優の耳はそれを受け付けなかった。
放送される女性教師の声は、しだいに教室を満たすざわめきへ、それから静寂へと変化した。この時だけ耳がおかしくなったみたいだった。
『中上先生』
自分の頭に浮かぶ言葉だけが、いまの優の中に響いていた。
『クモマクカシュッケツ?』
頭の中でその単語を繰り返す。聞きなれない言葉だった。何かの呪文のように思えた。いや、それが先生を殺したのだったら、呪文といってもよかった。
『どうして?』
何に対してそう問うたのか、彼自身にも分かってはいなかったが、その言葉は頭の中で何度も繰り返された。
やがて、優は自分がどういう感情を抱いているのかも掴めなくなった。
クモマクカシュッケツに怒っているのか、それとも先生の死に悲しんでいるのか、あるいは、そのどちらでもないのか。
とにかく混乱していた。
頭の中を黒い渦がぐるぐると回っているかのようで、気持ち悪かった。その渦からは、どんな些細な思考も感情も生まれ出なかった。
ふと、一瞬だけ渦が消えて、代わりに自分のいまの姿が頭の中に映し出された。
頭の中の優はいすに座って、両手を膝に強く押し当てて、震えながらうつむいているのだった。
自分はいま、どんな顔をしているんだろう。
そう思って、うつむいている自分の顔をのぞきこんでみると、そこには自分のものとは信じたくないような恐ろしい表情があった。
非情ともいうべき顔をしていた。
何も感じていないかのような、白い、能面のような顔だった。
それが自分だと信じたくはなかった。優は、自分のことを嫌いながらも、こういう時になれば、もっと情にあふれた反応をするだろうと信じていたのだった。そう、自分だって本当に悲しんで泣いたりできるはずだ、と。
だが、ふたを開けてみれば、中に入っていたのは、人形のように感情のない、自分のみにくく冷たい姿だった。
『あの、中上先生が死んだんだぞ!』
そのことをお前は本当に分かっているのか。
涙のひとつも流さない自分に対して、優は怒りをぶつけた。
いや、お前は分かってはいないのだ。中上先生の姿を見たわけでもない。だから、信じられないのだろう。もし、目の前に中上先生がいたならば、お前だって涙を流すことくらいできるはずだ。
自問自答を繰り返していると、なんだかむなしくなった。
結局、何をどう言い訳しようと、優にとって重要だったのは、知らせを聞いたときに最初に現れる純粋な反応だった。それが表面的には〝なかった〟以上、優は自分がさして悲しんでいないという結論を導き出さざるを得なかった。少なくとも、彼にとってはそれが正しかった。そして、そんな自分を一層嫌いになるのだった。
この間、優はざわめきの中にあってもひとりでいた。
しかし、教室の扉が開かれ、それから大きな音を立てて閉まる音に驚いて、優は顔を上げ、教卓の方を見た。担任の柴田先生が無表情で立っていた。先生のすぐ上にある時計を見ると、朝のホームルームが始まるはずの時間を二十分ほど過ぎていた。
「みんな、おはよう」と、柴田先生は口を開いた。
「今の放送を聞いたと思う。本当に残念なことです。中上先生は本当に穏やかな優しい先生で、生徒にも先生にも好かれていました。また、責任感も強く、学年主任もされていました。これはみんなもよく知っているだろう」
ここで、柴田先生がいったん言葉を切る。
「さて、放送でも言っていたように、近々、中上先生の葬儀が執り行われる。そこで、学年から一人、弔辞を読んでもらうことになった」
チョウジ?
これもまた聞きなれない言葉だった。
しかし、読むという言葉から、優はテレビドラマでよく見かける葬式の場面、そして、故人に向かって何かを読んでいる人の姿を思い出したのだった。
ああ、あれか、と言葉とイメージを整合させたとき、柴田先生はこう言った。
「申し訳ないけれど、弔辞を読んでもらう生徒はこちらで決めさせてもらいました。先生同士で話し合った結果です。黒澤くん、学年委員長の君に読んでもらうことになった」
そうですか。と、優は他人事のようにこころのなかで呟いた。
それから「はい」とだけ小さな声で答えると、そのまま下を向いて黙りこんでしまった。
また、教室がざわついた。
教室の皆が何を言っているのか、なんとなく分かった。
「黒澤くん、かわいそう」と、優を気づかうような声や
「俺じゃなくてよかった」
「お前なわけねーだろ、ばーか」とふざけあっている声まで様々だ。
かわいそうなのは、ぼくじゃない。
誰も「かわいそう」なんじゃない。
そんな言葉で片づけることができるはずもなかった。
『中上先生は何を考えて生きていたのだろう。何を目指して歩いていたのだろう』
数日前にあれだけ中上先生との関係について考えていたのにもかかわらず、優は彼についてほとんど知らなかった。後ほど知ることになる、彼の妻子の存在も、もちろんこのときは知らなかった。
『もっと話したかった』
それはこころからわき出る素直な感情だったが、やはり、深い悲しみは伴っていなかった。このときの優は、まだこころのどこかで、また明日にでも先生と話せると信じていたのだ。
「黒澤君、中上先生のお葬式までに弔辞を完成させなければならないから、この後、国語科の加藤先生のところまで行ってほしい」
それからの一週間はチョウジとの戦いだった。
毎日、昼休みや放課後の時間、加藤先生の元へと通った。
加藤先生は、地味な眼鏡をかけた物静かなひとだった。彼女は「大役」を務めることになった優を気遣いながら、共に文章を考えてくれた。
「うん、良いと思う。中上先生もきっと喜ばれるわ」
葬儀を二日後に控えた日の放課後、加藤先生は温かくそう言った。
「そうですか」何の感情もなく、優はそう答えた。
出来上がったものは、確かに弔辞だった。
けれど、そこに彼のこころがそのまま映し出されていたかといえば、恐らくそうではなかった。隠そうと努めたわけでは、もちろんない。自分のこころを、この期に及んでまで隠すつもりはなかった。恩師に対する最後の言葉くらい、本心を包み隠さずつづりたかった。だが、いまの優は、自分の気持ちをそのまま映し出すための思考と、それをそのまま文章にする術を持たなかった。
どうあがいても、弔辞向きのありきたりな文章しかできなかった。
あるいは、それで良かったのかもしれない。
「別にそこまで親しかったわけじゃない。親しくあろうとはしたけど、時間が足りなかった、気持ちが追いつかなかった」
学校からの帰り道、彼はうつむきながら、言い訳がましくそうつぶやいた。
『もっと親しいひとはたくさんいただろう。そんなひとたちに比べたら、ぼくのなかには何もない。かけるべき言葉なんて、あるはずないんだ』
今日の帰り道の右手には、深く大きな用水路があった。落ちないように白いフェンスが隙間なく並んでいたが、仮に落ちたとしたら大怪我もしくは死は免れないだろう。そこを流れる深緑色の水を、優はフェンス越しにぼんやりと眺めた。自分の影が、小さく水面に映りこんでいる。黒い頭髪、制服がぼやけて、まるで幽霊のように。
ふいに右手がフェンスに伸びた。握る指に力がこもる。
『ねえ、先生、ほんとうのぼくってのが分からないんだ。あんな、ぼやけた姿がぼくじゃないってどうして言えるんです。ほんとうのぼくは、ほら、あそこにいる。みにくいでしょ。そう言ってくださいよ』
でも、きっと、中上先生はそう言わないだろう。想像するまでもないことだった。
ある人間を、その美も醜も含めて丸ごと愛そうとする人は、そうはいない。
『もしかしたら、中上先生はぼくを丸ごと愛そうとしてくれた人だったんじゃないか。いいや、先生に何を期待しているんだ。でも』
もしそうだとしたら、どうして、そんなひとの死を前にしても、こんなに冷静でいられるのか。それは、つまるところ、自分が先生をどうでもよいと思っているからではないのか。愛されることだけを求めて、愛していなかったからではないのか。
そこまでを考えたとき、優は、自分の双眸に涙がたまるのを、そして、右目だけから一筋が流れ、頬を濡らしたのを感じた。
慰めにはならなかった。
自分がほんとうは先生の死に対して深い悲しみを覚えているからこそ、こうして涙が流れるのだ、という慰めには。むしろ、まったくの逆だった。自分に、愛情や慈悲が欠如しているということ、それに対する憐み。すべて自分可愛さが故の涙だった。
もう、これ以上は考えたくなかった。
優はすべてを忘れようと、持っていたウォークマンの電源を入れた。指を何回か動かし、なるだけ動きがなく、ほとんどが静寂によって構成されている曲を再生した。音楽を聴いていると、こころが止まるような気がした。何も考えなくても良いような気さえした。けれども、こころの奥にある、こころそのものは罪悪感に覆われていた。このときの優はその罪悪感を、ただの胸の気持ち悪さとしか認識できなかった。
ああ、早く帰りたい。
自然と歩調は早まり、優は水の流れに負けまいと、ずんずん歩いていく。数分もせず、右手の用水路は消え、代わりに広い曲がり道が現れた。ここを左に曲がると、短い住宅路があって、その先に優の家が面している大通りが伸びている。
さあ、もう少しだ。というところで、優はあることを思い出した。
「ここには、ルーがいる」
と、住宅路の右手にある家のベランダに立ててある白塗りの木柵に足早に近づく。
「ルー」イヤホンを外し、優は小声で呼びかけた。
すると、ワンッと人なつっこい声を出しながら、一匹の白い犬が近づいてきて、柵のすきまからこげ茶色の鼻を出してきた。
『いつものように撫でてくれ、ということだろうね』
優は少しだけ笑って、ルーの鼻を優しく掻いてあげた。
彼がこの道を通学路として使うようになってから、ほとんど毎日、このルーと顔を合わせている。初めは警戒して、こちらを見つめるだけだったが、それがいつしか吠えるようになった。優は『この犬は自分を遠ざけようとしている』とばかり思っていたが、ある日、なんとなく、自分を呼んでいる気がして近づいていくと、今のように鼻を差しだされ『撫でてくれ』とお願いされたのだった。その日以来、毎日、行きか帰り、もしくは行きも帰りも、優はこの道を通るたびにお願いをされている。
「元気だった?」
返事はなかったが、優が来たのが嬉しいようで、ルーは目をパチパチとさせながら、その手に身を任せていた。
こんな風に、優は動物に好かれることが多い。
ルーももちろんそうだが、街を闊歩しているノラ猫や、地面に降りてきたスズメやハトなどと、自然に触れあえることができる。動物には気難しいものもいるから、そういうものとは打ち解けるのに時間がかかるけれど、最後には仲良くなることが多い。その理由は優にも分かっていない。
基本的に素直で、好意も悪意もきちんと示してくれる動物たちを優は好いていた。彼の行動が気に入らなければ、すぐに吠えたり、どこかに行ってしまうし、もしも気に入れば、ルーのように身を任せてくれる。だからこそ、どこか気軽に接することができるのかもしれなかった。人間相手ではそうはいかない。
「なあ、ルー。お前はどうしてぼくを好いてくれるんだい。ぼくにはね、分からないんだよ。こんなぼくに好意を寄せてくれるものがいることが」
ルーからの返事はなく、代わりに可愛らしいうなり声が聞こえてくる。
それで良かった。むしろ、反応らしい反応があったら、彼は話すのをやめているだろう。こうしてルーに話すだけで、さっきの気持ち悪さが空気に溶けていくような気がする。それはとてもありがたいことだった。
「お前は気楽に見えるよ、ルー。ぼくはお前になりたい。でも、お前にもお前なりの苦しみがあるんだろうね。そう生まれたんだから、そう生まれたなりの苦しみはあるんだろうね?」
ルーは口を開くが、特に声らしい声も出さずに目をつむっている。
「ね、悲しいってどういうことなんだい。お前だったら、すぐに分かるんじゃないか。だって、ときどきとても悲しそうな声を出すじゃないか」
そのとき、優の手がルーの目の近くに軽く触れた。無意識に手が伸びていたのだ。ルーはすぐさま目を開き、後ずさって距離をとってから、ワンッと鋭い声で吠えた。
「ごめん、ごめんよ、ルー。そんなに怒らないでおくれ」
優は両手を振り、柵から離れた。
そして、彼のつぶらな瞳を、前に向き直る瞬間までじっと見つめ、それから、こころのなかでもう一度ルーに謝った。
ふと上を見上げると、いつの間にか空が灰色に染まっていた。
黒い雲が煙のように広がり、いつもより空を低く見せている。
雨のにおいがした。優は走り出した。