最終夜
アトルの目が開かれ、僕の目にも世界が映りはじめます。
もう幾度となく繰り返された、この感覚。
目を開くことができるというのは、世界があることを意味します。
目が開かれ、それから世界が見えるのではなく。
二〇××年二月二〇日
アトルは耳を小さく動かすと、大きなあくびをひとつ、ゆっくりと立ち上がって寝床から出ていきます。
太陽が少し隠れている、夜明け前のような赤紫色の空。
葉の間から差す白い透き通った光。
僕から見える彼の足は、もうかつての真っ黒なそれではなく、この不十分な明るさのなかでもはっきりと分かるくらいの灰色をしていました。
『これでこの場所ともお別れだ』
後ろからルーの小さな鳴き声が聞こえました。
「起きたかい」
アトルが振り向きながら言うと、
「おはよう、アトルさん」
と、ルーはいつものようにアトルの背に乗ります。
いつの間にか、彼の翼はずいぶんと回復していて、いまだに飛ぶことはできないものの、痛みなく自由に動かすくらいは出来るようになっていました。
「その調子ならいずれは飛べるようになるだろう」
「アトルさんのおかげです。あなたが今日までぼくを守ってくれた」
「結果そうなっただけだ。私は薄情者だよ」
「ううん。ほんとうに今日発つんですか」
「嫌かい」
「いえ、でもやっぱり不安で」
「君の世界に戻るころにはすっかり回復しているだろう。それにここにはもう長くは居られないだろうから」
「どうして?」
「それが分からないまま旅が終わることを祈るよ」
アトルは小さな桃色の友に不安を抱かせるまいと、そう答えました。
山のなかは冷たい空気と薄い霧で満ちていました。
彼らは何かに追われているわけでもないのに、できるだけ静かに、素早く、山を下りていきます。それは彼らが敵意や悪意に敏感であるからでしょうか。だとしたら、何が彼らに敵意を感じさせるのでしょうか。
「ねえアトルさん、少し速度を落とそうよ」
「これでいいんだ、早く山を下りよう」
順調に山を下りていくアトルでしたが、その道のりはある者たちに遮られることになりました。ふたりの前に、数人の人間が立っていたのです。それも猟銃を持って。彼らは同じような帽子を深くかぶり、何も話さず、没個性的に霧の中に浮かんでいました。
僕には複数の意味で不審に思われました。
なぜ、彼らがアトルを狙うのか。彼らは何ものなのか。
狙うにしてもなぜ目の前に立ちはだかるのか。
アトルも同じようなことを感じていたようですが、ともかく逃げねばならないと決意しました。足が一歩後ろへ動きます。
そして敵から視線をきって、山を下りようとします。
けれどもそれは叶いませんでした。すでに銃弾が一発放たれていたのです。
銃弾はアトルの左肩へと命中し、血を噴出させます。僕の肩にも鈍い痛みが走りました。
「ルー。すまない、君を送り届けるのは無理なようだ」
「それよりも大丈夫なの、血が」
「まだ大丈夫だ。だが、時間がない」
そう話している間に、数発の銃弾が大きな音とともに放たれます。
そのうちのいくつかがアトルに命中し、傷を与えました。
「アトルさん!」
「ルー。早く逃げるんだ。私が息絶えたら君もねらわれるかもしれない。奴らは私の知っている人間ではない」
「そんな」
「飛ぶんだ。もう飛べるはずだ」
「アトルさん、ぼく」
「いいから早く行くんだ!」アトルが振り返りながら叫ぶと、
「ごめんなさい」
ルーは小さなからだにこれ以上ないくらい力を込めて、必死に羽ばたき始めました。そのからだは少しずつ空中に浮かび、少しずつ安定しはじめました。
「しっかりやるんだ、ルー。君には会いたい者がいるんだろう」
もうアトルの視線は目の前の人間へと向けられています。そのうちの一人がルーに狙いを定めて引き金を引きました。次の瞬間、アトルはこれまでにないくらいの恐ろしい速さで、人間の持つ銃に向かって飛びかかっていきました。銃口に牙を立て、ルーから狙いをそらさせます。
「アトルさん!」
ルーはしばらく奮闘するアトルの様子を見ていたのでしょう。
何度か悲しそうに友の名を呼んだあと、彼は太陽の方に向かって飛び去っていきました。
それを察知したアトルは、その後も人間ではなく銃を狙って戦い続けました。
気味の悪い敵たちは、一切恐れる様子もなく、アトルに何発も銃弾を放ち、深い傷を与えました。
確かに、彼らは僕の知る血の通った人間ではないようでした。
もはや逃げることもかなわない、その絶望的な状況のなかで、アトルは生きるために戦いました。
そしてついに、全身に無数の銃痕を受けながら、おびただしい量の血を流しながらも、アトルは人間たちを追い払うことに成功しました。追い払うといっても、彼らは霧の中に溶けるように消えていっただけで、アトルに怯え去ったわけではないのでしたが。
アトルはしばらくその場に立ち尽くしていました。
生来の丈夫なからだを持つ彼だからこそできた戦いでしたが、何がこのような戦いを招いたのか、僕にもアトルにも分かりませんでした。
「いつだって小さな誰かを殺すのは名もない者たちなんだ」
顔の見えない、声を持たない何者か。漠然とした他者。他者という概念。
「なあ、ルーは女の子に会えるだろうか」
『きっと会えるよ』と僕は答えました。
「ならいいんだ」とアトルは自らの血だまりの上に大きな音を立てて倒れました。
『もう動けない?』
「ああ。なあ、お前には分かるだろう」
『アトル、君がルーを逃がしたわけではないということ?』
「そう、私は選び取っただけだ。私は犠牲になったのではない、決して」
戦いの先に夜が明けました。まぶしい太陽の光がアトルを強く照らします。
それと同時に遠くから、足音が聞こえてきます。
僕だけが身構えていると、人影が木々の向こうからやってくるのが見えました。そして、気づけば僕はアトルの痛々しいすがたを見おろしていました。
「やっと会えたな」アトルが力なく言います。
「アトル」僕はすぐさま友に駆け寄り、そのからだを抱きしめました。
その青い瞳がこれまでないくらいに見開かれます。彼は何かを視ていました。
そして、ゆっくりと話し始めました。
「皆がみえるよ。私は皆を愛していたんだ。愛していたから、ここまで生きてこられた。愛しいアルバが見える。コルン、アイルの成長した姿が見える。
父さんと母さんが見える。揃って私を微笑んで見ている。
中身のある言葉を交わしあった友が見える。
私はひとつだ。いますべてに頷くのだ。
私が私のすべての時空を前に頷いたとき、それはそのまま世界への愛に変わる。すべての時空は世界のなかに、次いで私のなかにあるからだ」
「もう君は自分の傷を増やさなくていいんだね」
「ああ。もうすっかり傷だらけだよ」
突然、僕の胸に痛みが走りました。
自分のからだを見てみると、左の胸に穴が開いていて、そこから真っ赤な血が流れ出ていました。見れば、まったく同じ傷がアトルにもあったのです。
「すまないな、優」
「ううん」僕はアトルを力強く抱きしめます。
僕らは血だらけの見るに堪えない姿でひとつになりました。まるでひとつの歪な岩のように。ただ、この姿が自らを慰めるものではないことを僕らは知っていました。それはひとつの事実でした。終わりということでした。終わりを見つめなければ、そもそも僕らは生きてはいないのです。
「最後にアルバに会えてよかった」先にアトルの目が閉じられました。
「良かったね、アトル」
それからすぐ後に僕の目も閉じられました。
徐々に暗闇は深くなって、もう世界の眩しさを感じることはできなくなりました。けれども、この暗闇もやはり僕らであることを、僕らは知っていました。




