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狼の詩  作者: ゆうなぎ
狼編
42/44

第廿三夜 

 二〇××年二月四日

 

 アトルとルーは出会った小さな天然の部屋を拠点にして、ときどき一緒に同じような食べものを獲りに行きました。それ以外の時間は、アトルの旅の疲れ、ルーの傷を癒すことに費やされました。

 「なあ、その人間の女の子というのはどういうやつなんだ」

 あるとき、アトルはルーにそう尋ねました。

 「人間のように思えない子ですか、ね」

 「でも人間なのだろう」

 「その通りです。けれども、ぼくを〝ちがうもの〟としてみていないのです。心から楽しんで一緒に遊んでくれます」

 「ちがうもの?」

 「ぼくとアトルさんもちがうもの同士です。でも、ちがうからと言って、いがみ合いません。ぼくらはきっと分かりあっているからです」

 「そうかもしれないな」

 アトルはルーの純粋な好意をあえて汚すことはしません。

 「でも、その子はそもそもちがうものとしてぼくを見ていないのです。ちょっとからだの小さなおなじような生きものだと思っているのかもしれません」

 「面白いな」

 「そうでしょう」

 ルーは女の子との日々をゆっくりと回想します。

 「彼女とはよく追いかけっこをして遊んでいました。

 かけっこといっても、ぼくが常に追われる側で、彼女はいつも追いかける側でしたけど。ぼくはもちろん捕まりたくないので、時折、跳ねたり、少し遠くに飛んだりして、彼女から距離をとります。すると、追いかけていた彼女の方が勢い余ってこけてしまうことがあるんです。

 それで女の子は泣いてしまうんですね。小さな膝を砂まみれにして、そこから少しだけ真っ赤な血を出して。小さな人間ってぼくらに負けず劣らず弱いもので、少しこけたら血が出てしまうし、大きな声で回りも気にせず泣いてしまいます。

 そんな風に泣かれてしまうと、きっと年上のぼくは少し困ってしまって、慌てて女の子の近くに戻って顔をのぞき込むんです。すると、女の子はすぐに泣き止んで、僕の方にちっちゃなぷくぷくとした手を伸ばしてきて、軽くタッチしながら「つかまえた」なんて笑顔で言うんです。その笑顔の本当に愛らしいことといったら」

 ルーが思わず笑顔になります。

 「ねえ、アトルさん。ぼくらは悪意や敵意に敏感です。だから、それらから逃げる術を心得ています。逃げられないこともありますが」

 「ああ、そうだな」少し声を低くしてアトルが答えます。

 彼の記憶のもっとも辛い部分にルーの言葉は触れかけたような気がします。

 「その子にはそんなものは感じられないのです。ぼくら鳩は、アトルさん、あなたのようなオオカミとはちがって人間の世界にいることが多いのです。人間の世界にいて、多くの人間の大人と子どもを見てきました。

 大人はぼくらになど興味を払いません。道端の石ころのようなものです。一方で子どものなかにはぼくらに興味を持ってくれるものがたくさんいます。けれども、子どもが皆、ぼくの友達のように優しいわけではないのです。ときには残酷にぼくらを攻撃することもあります。殺してしまう事さえも」

 「私には人間を許すことなどできない」

 アトルの低く重い声が洞のなかを響きます。

 聴いたことのない数発の銃声が脳のなかに響き、彼は思わず頭を振りました。

 「アトルさん?」と、ルー。

 「いや、何でもない。ただ、ひとつ思うのだ。君の怪我といい、私が人間に受けた傷と言い、また私の罪と言い、我らにとっての望ましくないこというのはどうして起こるのだろうと。どうしていつもそれらは突然なのだろうと」

 「ぼくにはわかりません」とルーは左の翼に目をやります。

 「すまない」

 「いいんです。これが人間につけられた傷だといっても、ぼくはあの子に会いたい。会ってまた追いかけっこをしたいんです。言葉すらも交わせない、ほんとうにそれだけの関係ですけど」

 「私にできることならなんでもやろう。人間の世界のなかには行けないが、近くまでなら行ってやるさ」

 「ありがとう。でも」急にルーは表情を暗くして言います。

 「そう、さっきのアトルさんの言葉で思い出したんです、ぼくの翼のことを。もう傷が治ってから時間が経っているはずなのに、いまだにわずかも動かないんです」

 アトルは何も言わずに数回頷き、それから背中に乗るようにルーに合図しました。

 「どこへ?」

 「いいから」

 アトルたちは洞をでて、森の中心部へ向かっていきます。

 小さな無数の星々が万華鏡のように広がる濃紺の夜でした。

 夜には月が主役になって、星々とともに暗い世界を銀色に照らします。銀色はアトルにかつての友アミトを思い出させるようでした。

 「懐かしい夜だ」

 と、静かな森を歩きながらアトルが言います。ルーは何も言いません。

 「急にどうしたんだ」

 「ねえ、アトルさん。ぼくはあきらめた方が良いのかもしれません。きっと飛ぶことはできないし、あの子に会いに行くこともできない。鳥として飛べないということは、もう死ぬことと一緒なんです」

 「そうかもしれない」

 自然の掟を知り尽くしているアトルは小さな友の言葉を一応肯定します。

 「そうでしょう。ぼくには空がこんなに遠く見えたことはなかった」

 と、ルーはつぶやきます。

 アトルはしばらく山を歩き続け、より空が広く見える場所にたどり着くと、

 「君は自分に絶望しているんだろうか」と問いました。

 「そうかもしれません」とルー。

 「そんな君に私は甘い言葉をかけることなどできないよ。きっと治るとか、君には私がいるとか、ね。そんな言葉は何の保証にもならない。

 しかし、そのまま君が暗い底まで落ちていこうとするならば、私は止めなければいけない。君が何もかもを諦めてしまうとするならば」

 「どうしてです」

 「私は長く生きたよ。おそらく並のオオカミならとっくに死んでしまっているほどの長い時を生きた。私のいた群に伝わる伝説のオオカミほどではないにしてもね。

 私は長生きなどしたくなかった。

 大切なものを失ってまで生きていたくはなかった。しかも自分の罪によって。

それでもこうして生きている。生き永らえている」

 「おかげであなたに助けられました」

 「ああ、そうとも言えるね。だがね、私には生きるという意味が長いこと分からなかった。私は私にしたがって歩いてきたつもりだった。若いころに群を追われはしたが、家族にも恵まれ、幸福を知った。しかし、突然の不幸と私の奥底にある暗い情動によってそれらも失われた。本当に長い間、別れを悲しみ、後悔し続けた。あの過去がなければよかったと思うことも一度や二度ではなかったよ。私そのものが存在として間違っていたのかもしれない、と。

 ただ、私がほんとうに間違っていたのは、その点ではなかった。

 私は時間を、本来分けることのできない時間を都合の良いように分けて、まるで自分が複数いるかのように思考していた。過去の私、今の私というように分けて、それぞれを評価して、それで、今この私は死ぬべきだと考えたこともあった。さっきの君が、翼がない自分は諦めるべきだと言ったように。

 だがそうではないのだ。

 時間とは、生とは、本来ひとつなぎのものだ。分けることも評価することもできない。それができるように見えるだけだ。

 私は自分が生きるべきだとも死ぬべきだとも思わない。それは語りえないことなのだ。ただ、今は生きていて、生きている限りはなるだけ〝別れ〟を生み出さないようにするだけだ。

 もし君の翼が動かなくなったとして。

 もう未来を飛ぶことはできないと思われるかもしれない。

 それでも、飛べない君がこれから考えること、感じることのすべては尊重されるべきだと思う。空を駆けてきた君がこれまで生み出してきたすべてと同じように。どちらも君で、それを分けることなどできないのだから」

 「アトルさん、ぼくには何も言えません。あなたにぼくの苦しみが分からないことはないでしょう。あなたの言葉にぼくは頷くことも首を振ることもできない。ただ、これからが怖いのです。怖さから逃げ出したくなるのです」

 「まだ飛べなくなったと決まったわけじゃないが、君がこの世界を君の足で歩けるようにしばらくは私が助けよう。いいかい〝君の足〟で歩くんだ」

 「ぼくの足?」

 「翼でもいい。君自身で君の世界を生きるんだ。辛いときは空を見ると良い。空に浮かぶものたちは私たちに良いことを教えてくれる」

 「なにを?」ルーの声は少し明るくなったように聞こえます。

 「星だ。星はひとりで輝く。星はひとりで自分自身の光を放って生きている。そしていつか死ぬのだ。その星の光は長いこと消えない。ずっと光っているのだ。いまだけが光っているのではない。生まれてから死ぬまで自分自身の光を生み出し続けるのだ。何かと競っているわけでもなく、何かに認められるわけでもなく。それでも、空を明るくしてくれている。我らの世界に彩を与えてくれる」

 アトルが星の話をしたことはなかったように思います。

 不思議なことに、それは少年だった僕が太陽を見たときに考えたことと似ているような気がしました。

 「ちっぽけな我らは星のように生きることはできない」

 『ちっぽけな僕らは太陽のように輝くことはできない』

 僕とアトルはほとんど同時に言葉を発します。

 「けれども、彼らが輝くのをやめないように、せめて、我々は我々の生きたすべての時間を、共に過ごしたもの、場所とともにできるだけ認めなければならない。我らそれぞれのすべての時空を前に頷かなければならない。それがたとえ後ろめたいことだとしても、恥ずべきことだとしても、それが欠けた生を考えることができないくらいに」

 「お話してくれてありがとう」

 ルーは頭の上からアトルをのぞき込んでお礼を言います。

 「さっきも言ったように今のぼくには何も言えません。でも、その意味を覚えておきます。あなたが話してくれた意味を覚えておきます」

 「私は君に語ったと同時に私自身に語っているのだ。だから、礼を言うのはこちらの方さ。私のための言葉を私のために紡いだ。それが君に利するならそれでいい。害になるようなら、君が君の意味を見つければ良い。それを願っているよ」

 そのとき、背後から何者かが枝を踏んだような音がしました。

 アトルが振り向くと、ひとりの人間が逃げていく、その後ろ姿が遠ざかっていくのが見えました。

 「そう、ここは人間に近い山だったな」

 「あの人間は何をしていたんだろう」

 「山に登っていただけだろう。だが、まずいかもしれない」

 「何がまずいの?」

 「私だよ。私のこの大きなからだが人間には恐怖にしか映らないだろう」

 「それがどうかしたの」

 「いや、どうもないさ。さあ帰ろう。君のからだはまだ治っていない。夜は静かで美しいものだが、寂しく冷たくもある。冷たさが毒にならないうちに早く帰ろう」

 「うん」と、ルーはアトルの背中の最も平らな部分に移動しながら答えました。

 住処に帰る途中、アトルはもう一度振り返り、人間が逃げていった方を見やりました。それからゆっくりと首を振り、自らに訪れる未来のことを考えました。

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